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十二夜 (シェイクスピア)

 先日、チョーサーのカンタベリー物語を読んでみたこともあり、今回は久しぶりにシェイクスピアです。はるか昔の学生時代以来でしょうか。

 こういう外国文学の古典を読む場合は、やはり、その当時の社会の様子を知らなくては話にならないですね。今回の岩波文庫版は、オーソドックスな小津次郎氏の訳ですが、その注に目を通すだけでも、訳の背景を垣間見ることができます。

 もうひとつ、シェイクスピアに限らず演劇の脚本に不可欠な素養は「言葉遊び(駄洒落)」のセンスです。
 これは、特に翻訳本の場合、訳者が非常に苦労するところですね。原語では言葉遊びになっていても、そのまま日本語に訳すと駄洒落にならず面白味がなくなるわけですから。いきおい、そのあたりに同じ原文でもそれぞれの訳者の工夫のあとが滲み出てきます。

 学生時代に小田島雄志氏のシェイクスピアの講義をとったことがあるのですが、同じ作品でも訳者の解釈や感性による差の大きさを教えられました。

 さて、この「十二夜」ですが、シェイクスピア円熟期の最高の喜劇というのが大方の評判のようです。
 ストーリーは、「人違い」を基軸にした素直な流れです。短編なので登場人物も多くはありません。ちょっと可愛そうな役回りなのが執事のマルヴォーリオ、解説によるとピューリタンを揶揄している諷刺とのこと。このあたりエリザベス朝期のイギリス社会がイメージできないと観劇の楽しさ・理解も半減してしまうのでしょう。

 最後に、シェイクスピア演劇では不可欠な「道化」の台詞をひとつ。

(p117より引用) 公爵 ・・・どうだ、調子は?
道化 はい。敵のお蔭で良くなりまして、味方のお蔭で悪くなります。・・・味方てえものは、あっしの阿呆ぶりが巧いとほめちゃあ、あっしを馬鹿にいたします。ところが、敵ははっきりあっしを馬鹿だと言ってくれます。つまり、敵のお蔭であっしは自分てえものがよくわかりますし、味方のお蔭で自分を見失います。かかるがゆえに、・・・味方のために悪くなり、敵のために良くなりますという寸法で。

 シェイクスピアは、主人公に道化についてこう語らせています。

(p72より引用) ヴァイオラ あの人は本当は頭がいいから阿呆の真似ができるのね。上手にとぼけてみせるのは特殊な才能だわ。からかう相手の気分を見なきゃならないし、人柄や、タイミングだって大切だわ。鷹のように目を光らせて、前を横切るどんな鳥でも引っさらわなきゃいけないんだもの。

 「道化を演じる」というのは、常人ではこなせない高等技術だということなのでしょう。


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