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ツチヤ教授の哲学講義 (土屋 賢二)

 「哲学」にはちょっと興味があるのですが、何冊その関係の本を読んでも入口にすら立てない状況です。

 そういう折、一風変わった哲学の入門書?ということで手に取ったのがこの本です。本書は、土屋賢二氏(お茶の水女子大学名誉教授)の大学での講義をかなり忠実に再現したものとのこと。
 その内容はというと、私のような哲学の素人からみると、仮にも「哲学者」が、プラトンやデカルト・・・といった錚々たるビッグネームの思想をここまで「よくわからない」とか「間違っている」と断言していいのかしらと思うようなものでした。(だからこそ面白いのですが・・・)

 たとえば、ノーベル賞も受賞しているフランスの哲学者ベルグソンの「時間」についての土屋流解説です。

(p41より引用) 科学は観察や実験によって立証することができますけど、また、立証しなくてはいけないんですけど、形而上学は観察も実験もしないで真相はこうだと主張する点が違います。でも、今まで言ったように、ベルクソンの形而上学は、常識の誤りを正しているのではなくて、実質的には、日常的なことばづかいに反対しているとぼくは思います。そしてたいていの形而上学は、結局は日常的なことばづかいに反対することになると思います。

 このベルグソンの例をはじめとして、土屋氏は、デカルトプラトン、その他観念論者・現象論者を次々に否定していきます。

(p91より引用) 形而上学は、観察可能な事実を超えたところにある真相を究明しようとしているわけですけれど、実際には、これまで見たところでは、ことばの使い方の変更を提案する結果に終わっているように思えます。

 本書の後半では、ウェトゲンシュタインを扱っています。ウェトゲンシュタインの主著「論理哲学論考」についての土屋氏の解説です。

(p199より引用) 真とは、一方から他方に変換した結果が一致することで、偽とは一致しないということです。「意味がある」とは、変換できるということで、「意味がない」とは変換できないということです。
 これが「論考」の基本的アイデアだとぼくは思うんですね。ものを知るということは、結局は、元の事実を規則的に変換して、それに対応した記号の組み合わせを作ることです。

 ウィトゲンシュタインは、分析哲学・言語哲学の代表的学者といわれています。土屋氏もこの考え方を支持しているようです。

 この学派の考え方は、事典の解説によると、まず、言語分析により、有意味な命題と無意味な命題を区別するのだそうです。
 有意味な命題とは、形式的に真偽が確認できる数学や論理学の命題、あるいは観察や実験によって実証的に真偽が確認(検証)できる経験的命題であり、無意味な命題とはそうした検証が不可能な命題です。
 この区別によると、「神は存在する」とか「魂は不滅である」といった形而上学的命題や、「この絵は美しい」といった美的判断も、「この行為は悪い」といった倫理的判断も、すべて無意味だということになるのです。
 プラトンのイデア論に始まる「観念論」とは相対する考え方です。

 さて、本書ですが、哲学の入門書という点では、私としては正直分りにくかったですね。
 もちろんその最大要因は、私の哲学に関する「基礎的知識の欠如」によるのですが、せめて、ごく一般的な哲学史をなぞったあとで、もう一度読んで見ると、土屋流の説明も少しは理解できるのではと思いました。



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