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忘れられた日本人 (宮本 常一)

稀有なフィールドワーカー

 民俗学といえば柳田國男氏ぐらいしか頭に浮かびません。かといって柳田氏の著作は(恥ずかしながら)まだ読んだことすらありません。(←このBlog執筆時点では)

 「民俗」とは民間の習俗民間伝承のことです。民俗学は、衣食住を含む生活知識・技術・社会慣習・信仰など世代から世代へと受け継がれた伝承文化を採集していきます。そして、そうした人々の日常生活の変遷の跡をたどることにより、歴史的に再構成したり構造的にとらえなおしたりして、所属する国や民族の文化を明らかにしようとする学問とのことです。
 その研究においては、文献記録のみならず、口伝えの民間伝承が資料として極めて重要視されるのです。

 宮本常一氏は、山口県周防大島に生まれた民俗学者です。そしてその精力的な活動の中で、柳田國男氏渋沢敬三氏(渋沢栄一の孫、日本銀行総裁・大蔵大臣をつとめた)と出会うことになります。
 宮本氏は、生涯にわたって自分の足で調査を続け、稀有なフィールドワーカーとしても高く評価されました。その実体験に裏打ちされた該博な知識は、林業・農業・塩業・漁業・民具・交通・民衆史・考古学など多岐に及びます。先の渋沢氏は、「日本列島の白地図の上に、宮本くんの足跡を赤インクでたらすと、列島は真っ赤になる」と大いに驚いたと伝えられています。

 この本で語られていることは、半世紀前の日本にあった現実の生活の姿です。
 その風習や心情は、現代に脈々と受け継がれているものもあれば、遠いかなたの昔話になってしまっていることもあります。しかしながら、いずれにしても今の生活は、その営みの道の延長線上にあることには変わりありません。

 民俗学というジャンルの本はほとんど手にとったことはないのですが、この著作は、実証研究の王道たる丹念なフィールドワークの見事な結晶だと思います。ともかく、宮本氏自身の足で、自身の目で、自身の耳で直に集め確かめた人々の生きた事実の厚さ・重さを感じさせてくれます。

 その事実の集積は、おそらく宮本氏の、取材した方々すべてに対する宮本氏の愛情が、語るお年寄りの口を饒舌にした賜物のだと思います。宮本氏を前にすると、お年寄りたちも、そういえばこういうこともあった、ああいうこともあったと心地よく思い出を紡ぎ出していでいったのでしょう。

村のくらし

 宮本氏は、本書の中で、お年寄りの語りを丹念に採集することによって、ふつうの村のくらしをそのままに描き出してゆきます。
 村の素朴な正直さです。

(p96より引用:名倉談義) 村の中が仲ようするというても、そりゃけんかもあればわる口のいいあいもあります。貧乏人同士がいがみあうて見ても金持ちにはなりませんで。それよりはみな工夫がだいじであります。

 こどもがいなくなったと聞くと村の人々はみんな、頼まれなくても心当たりのところに探しに行きます。村の優しさです。

(p104より引用:子供をさがす) かれはのんべえで、子供たちをいつもどなりつけていたが、子どもに人気があった。かれは子どもがいなくなったときいて、子どもの一ばん仲のよい友だちのいる山寺までさがしにいったのである。そこは一番さびしく不便な山の中であった。

 こういった極々ふつうの村の暮らしぶりについては、あまり知られてはいませんでした。村の人間関係は、古い因習に縛られて旧態依然としているとか、閉鎖的でウェットであるとか言われがちですが、現実は必ずしもそうではなかったようです。

(p209より引用:私の祖父) 世間のつきあい、あるいは世間態というようなものもあったが、はたで見ていてどうも人の邪魔をしないということが一番大事なことのようである。世間態をやかましくいったり、家格をやかましくいうのは、われわれの家よりももう一まわり上にいる、村の支配層の中に見られるようにみえる。このことは決して私の郷里のみの現象ではないように思う。・・・こうした貧農の家の日常茶飯事についてかかれた書物というものはほとんどなくて、・・・いままで農村について書かれたものは、上層部の現象や下層の中の特異例に関するものが多かった。そして読む方の側は初めから矛盾や非痛感がでていないと承知しなかったものである。

 ある側面だけを切り出しての類型化・一般化は、ついつい陥りがちな誘惑であり落とし穴でもあります。
 その落とし穴にはまらないためには、素直な眼でいろいろな視座から現実を捉えること、そうして得られた事実をまずはそのまま受け入れることが肝要です。

村の指導者

 以前の「村」といえば、交通の便も悪く「あまり外との交流がなかっただろう」と勝手に思い込んでいました。
 が、宮本氏によると、どうもそうとばかりは言えないようです。

 村々には「世間師」と言われる魅力的な型破りの行動派が何人もいたのです。

(p214より引用:世間師(一)) 日本の村々をあるいて見ると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験をもった者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている。・・・村里生活者は個性的でなかったというけれども、今日のように口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上ではむしろ類型的なものがつよく見られるのに比して、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が年寄りたちの中に多い。これを今日の人々は頑固だと言って片付けている。

 また、村の中には何人か「文字の分かる」人がいました。この人々はやはり村の中心人物となっていました。高木さんもそのひとりです。
 高木さんは自然とともに暮らす純粋な農民としての澄んだ感性をもっていました。

(p284より引用:文字をもつ伝承者(二)) 高木さんは田圃をつくったり、野菜や花をつくったりすることがとてもたのしいのである。・・・夏のはれた暑い日の稲を見ると、ゴクリゴクリと田の水をのんで、稲の葉が天をさしてのびていくのがわかるような気がするという。秋になって田に入れた水をおとしてやると、その水がサラサラとさも自分たちの役目を果したようにさっぱりして流れていくのがわかるという。
「はァ、みんなの声がきこえるような気がしますね」

という傍ら、同じ高木氏がこう言います。

(p286より引用:文字をもつ伝承者(二)) 古い農民生活は古い時代にあっては、それが一番合理的であり、その時にはそのように生きる以外に方法がなかったのである。それだけにその生き方を丹念に見ていくことは大切であるが、時代があたらしくなれば新しい生き方にきりかえてもいかねばならぬ。しかしそれは十分計画もたて試してみねばならぬ。それは村の中の目のさめた者の任務である。

 こんどは冷静な現実者としての村の指導者のことばです。
 昔の農村には、高木さんのような人がいて、自らの力で村を豊かにし導いていったのです。


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