日本語は死にかかっている (林 望)
著者の林望氏ですが、恥ずかしながら本書を読むまでは英文学者だと思っていました。ご専門は、日本書誌学・国文学とのことです。
さて、本書ですが、言葉の専門家である林氏による「美しい日本語」への指南書です。また、昨今の日本語を俎板に載せたリンボウ先生の楽しいエッセイでもあります。
簡単に「ことば」といっても、林氏は、発せられる前の「中身」が重要だと説きます。
(p20より引用) 分析して考えてみると、ことばというのは、まず何か心の中に、ぜひこれを人に伝えたい、このことをぜひ言い表したいという「核」があり、そしてそれをどういう表現で言ったら一番相手に伝わるだとうかという「思考」があって、それから、自分の脳みその中に蓄えられているさまざまなボキャブラリーの中から最も適切なものを「選択」し、組み立てて、そうして誤りなく話したり書いたりする「表現」、この四段階から成っているわけである。
林氏は、本書のいたるところで、日本語を悪くした元凶として「テレビ」を挙げています。
(p23より引用) ろくに漢字の読めないアナウンサーが、言葉を知らない放送作家の書いたものを読み、それを志の低いプロデューサーやディレクターが製作している、それが現今のテレビである。もう日本語を悪くするためにやっているとしか言いようがないのだ。
私は最近ほとんどテレビは見ないのですが、確かに「伝えることば」のプロフェッショナルとしてのアナウンサーは減りましたね。バラエティ系の番組は見るに耐えませんし、好きなサッカー中継もボリュームを絞りきって画像だけ見ている状態です。
本書で、林氏は「美しい言葉づかい」に向かった心構えをいくつも説いています。そのうち、私の自戒もこめて、なるほどと思ったいくつかをご紹介します。
まずは、ことばに表れる傲慢な態度について。
(p75より引用) 自分の態度やことばづかいに偉ぶったところがないか、とそういう反省自省は、いくらしてもし過ぎるということがないのである。
(p159より引用) 傲慢な人ほど、自分は謙遜だと思い、謙遜な人ほど自分は傲慢だと思っているというところがあるのである。人の心の皮肉な真実がそこにある。
また、「ことばは聞く人あってのものだ」という当たり前のことの再認識について。
林氏の説くスピーチや会話の秘訣は、「相手が聞きたいことを話す」ということです。これは書き物でも同じです。そして、そこには「自分に対する客観性」が求められるといいます。
(p94より引用) 自分が話す時に、話していることを相手がどう聞くかということを、客観的に聞いている、「もう一人の自分」が必要だということである。
客観性というのは、ことばの表現の上で、じつはもっとも重要な要素である。・・・
自分だけが面白がって書いている文章は、つまらない。・・・
それには、自分の文章を常に自己批判する視線と意識がなければならない。
最後に書き留めておくのは、本書を読んで私が最も面白いと感じた「遣り句」という連歌での技法?についてです。
「遣り句」とは、連歌の連なりが煮詰まった際に、流れを変えるために放り込む確信犯的な「内容空疎な一句」のことだそうです。
(p210より引用)) こういう遣り句が詠める人は、ほんとうの達人である。あらゆる句の詠み方を知っていて、そしてそこに一座している人たちの能力を全部把握できて、そして煮詰まってきたかどうかの、座の空気が読める。
蓋し“達人”という感じがしますね。
常日頃の会話の場でも、こういう機転のきく“話の名手”に少しでも近づきたいものだと思います。