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揺れる大地に立って 東日本大震災の個人的記録 (曽野 綾子)

(注:本稿は2011年に初投稿したものの再録です)

 いつもの図書館の新刊書の書棚で目についたものです。今般の東日本大震災を機に出版された本のひとつです。

 著者は作家の曽野綾子氏。海外の難民に対するボランティア活動等にも積極的にたずさわっている反面、政治・社会的な面ではかなり直截的な主張をする論者としても有名です。
 それだけに、本書で開陳されている曽野氏の考え方には、首肯できるところもあれば、全く同意できないというものもありました。その点ではいろいろと刺激にはなります。

 私が感じた最大の首肯できないところは、今回の大震災の悲劇を、世界的な貧困や難民の実態あるいは自らの戦争体験等と、安直に比較・評価しているように感じられる言い様でした。
 もちろん、難民の悲惨さや戦時体験の過酷さを否定するものではありませんが、「世の中には、もっともっと悲惨なことはあるんだ。だから、この程度のことは我慢しなさい」といったトーンで、今回の被災者の方々の心情等を徒に軽視しているかのような表現は非常に気になります。

 戦争体験等とは異なりますが、たとえば、こういった比較の仕方もそうです。

(p161より引用) 完全装備の放射能防護服は「五キロもある」と新聞は書いている。中はサウナのようで、働く人は、すぐ脱水症になるという。しかし重さの点だったら、・・・歌舞伎俳優の方がずっと重いかつらや衣装に耐えているだろうと思う。

 他方、著者の主張はそのとおりだと思うところも、もちろんありました。
 たとえば、今回の大震災を機に行われた数々の義捐金・募金について。

(p143より引用) お金は集めるより配るほうが難しい。正確に目的に叶った相手に、安全に渡すことは至難の業である。それだからこそ救援組織の専門家たちは、その配り方を平素から考えるべきなのである。そこまではできないか、する気のない組織には、金を集める資格もない・・・」

 義捐金は適切なタイミングで必要な被災者の方々の手元に届かないと、せっかくの善意の効果は著しく減退してしまいます。今回もまさにそういう危惧していたような事態が現実にはそこここで生じていたようです。

(p143より引用) 集まったお金を、「どのように使います」、あるいは「使いました」という報告がインパクトのあるやり方で行われなくては寄付者の眼に触れることはめったにない。

 こういった最終的なゴールまで見届けるチェック機能は、実際の給付プロセスに関わる機関や自治体に期待できない状況下では、まさにマスコミの使命のひとつなのでしょう。

 さて、今回の大震災を端緒として、世の中のありとあらゆる部分の光と影が顕かになりました。
 「光」の部分は、国内外の多くの人々から寄せられた善意や痛みを分かち合う心、「影」の部分は、被災の苦しみ・悲しみが最大のものです。そしてさらに、生活していくうえで当たり前だと思っていたことがそうではなくなり、改めて、当たり前であることの貴重さを痛感することとなりました。

 とはいえ、こういった著者の言い様はどうでしょう。

(p178より引用) 地震をいいと言うのではない。しかし地震で断水や停電を知ったおかげで、日本人は水と電気のありがたみを知った。すばらしい重要な発見だ。・・・避けなければならないことからも、私たちは学び自分を育てて行くことが健やかな生き方なのだと思っている。その姿勢を保てれば、今度の震災はむしろ慈愛に富んだ運命の贈り物ということさえできる。

 「慈愛に富んだ」という表現は、あまりに無神経で残酷なような気がします。

 本書での著者の主張は、綺麗ごとで済ませる表層的なコメントではなく、そこには、なかなか面と向かって言えないような正論も多く見受けられます。
 しかしながら、今回の大震災は、まったく罪のない多くの人々の命をも奪い去っていきました。大切な方を亡くされた方々、甚大な被害を被った方々の心情を慮るに、ところどころ過度に厳しい語り口になっているのがとても残念に思います。



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