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論語の新しい読み方 (宮崎 市定)

(注:本稿は、2012年に初投稿したものの再録です)

 久しぶりの論語関係の本です。
 著者の宮崎市定氏は著名な東洋史学者。宮崎氏の著作は、以前「雍正帝―中国の独裁君主」を読んだことがあります。

 本書は、その宮崎氏による論語の新解釈を紹介したものです。
 いくつかの小文を採録した体裁ですが、その初章「論語の学而第一」から、まずは「注釈家」についての宮崎評です。

(p7より引用) 注釈家の通弊は、人に尻尾をつかまれることを恐れて、ひたすら無難で安易な解釈を選び、結局一番つまらない内容に落ちつかす点にある。注釈家の手にかかったならば最期、抑揚のリズムも、照応のアクセントも一切駄目にされ、どんな名文でも見違えるほど退屈な説教に化けてしまうのだ。

 孔子のことばも、漢代以降の「経学的立場」からの解釈により、元の生き生きとした真意が屈曲してしまっているとの考えです。

 宮崎氏の論語解釈にあたっての方法論は、表題作である「論語の新しい読み方」の章で開陳されています。

(p45より引用) すべてわれわれの研究の緒は疑問を持つことから始まりますが、その疑問のきっかけにはいろいろあります。意味が通らなかったり、文章がおかしかったり、特に言葉づかいが無理であったりすること、また文体が非常にアンバランスな場合、そういうときにわれわれは疑問を持つのであります。

 この疑問から発して、論語のテキストにある字句そのものの正誤を疑い、また過去の権威者による注釈を疑うのです。
 論語は、孔子の口から発せられた言葉を弟子たちが取りまとめた後、2000年以上の年月の中でその書の位置づけは大きく変遷しました。宮崎氏は、それら歴史的コンテクストを踏まえ、原初の孔子の言葉を探究しようと試みたのです。

 この探究に関し、宮崎氏が採った興味深い方法論が紹介されています。

(p163より引用) およそ一時代には一時代の流行があって、それが古典の解釈を意識的、無意識的に歪めてしまう結果をもたらす。・・・そのような無数の歪みの中から、当初の純正な意味を汲み出すために考えられる手段は、後世の作為そのものが生み出した破綻を発見し、その矛盾を追及して行くことが一つの手懸りを与えることになろう。

 本書の面白さは、宮崎氏流の「論語の新解釈」に加え、宮崎氏の学究に対峙する姿勢が垣間見られるところにあります。それらは、まさに、従来の研究方法に対する宮崎氏からのアンチテーゼの提示です。

(p195より引用) 従来の思想史の研究は、あまりに学派の別にとらわれすぎ、それぞれの学派ごとに思想の発展をあとづけようとするやに見受けられる点への不満である。事実は思想の発展なるものは学派の間で互いに敵対しあい、競争しあい、同時に啓発しあって実現するものなのである。

 この考えから本書の「中国古代における天と命と天命の思想」という論文において宮崎氏は、孔子から孟子に至る儒家思想の変遷の考察につき、あえて墨子との対比を加えることにより、それぞれ三様の思想の位置づけの明確化を試みているのです。

 本書は、こういった様々な論語解釈の専門的な解説が中心ではありますが、「論語の新しい読み方」とのタイトルにも表れている「読み方」すなわち「読書」の意味についての宮崎氏の考えも、ところどころで開陳されています。

(p250より引用) 我々は四角な字の訓詁を専業としている間に知らず知らず、匠気に染まる所がなかったとは言えない。そういう時に違った畑の方から因習にとらわれない全く自由な意見を出されると、非常に清新な思いがする。この新鮮な感触が読書の上で何よりも貴重なのである。

 さて、最後にひとつ、宮崎氏ほどの大家であっても、否、大家であるが故の箴言を書き留めておきます。
 論語の文献学的研究の重鎮武内義雄氏の大著「論語之研究」を前にしての宮崎氏のことばです。

(p198より引用) いかに勝れたる前人の業績も、十分の自信を以て受け売りするためには改めて根本から問い直さなければいかぬものだ、ということを思い知らされたのであった。

 「学問的理解」に対する厳しくも謙虚な姿勢です。



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