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ぼんやりの時間 (辰濃 和男)

 著者の辰濃和男氏は、朝日新聞の記者・論説委員を歴任した方で、1975年から88年にかけて「天声人語」の執筆もなさっていたとのこと。その辰濃氏の最近のエッセイです。

 テーマは「ぼんやり」「懶惰」「閑適」「無為」・・・。そういう時間の過ごし方の意味や意義を、何人かの「人々」、いくつかの「文字」を入口に語ります。

 たとえば、詩人の高木護氏を紹介している「放浪-マムシと眠る」の章から。

(p61より引用) 高木は書く
ぽかんとしていると、そこら辺の景色がじつに鮮やかに見えてくる。木も、草も、小石も、空も、風も、日向も、小鳥たちも。・・・」
 ぼんやりしているとき、こころは、解放されている。こころが解放されていると、空は本来の空として見えてくるし、森の木々は本来の森の木々として見えてくる。見えてくるだけではない。・・・万物の中にとけこんでいる己の小ささも見えてくる。

 私にはこういう経験はありませんが、如何にもそうなんだろうなと感じることばですね。

 もうひとつ、ミヒャエル・エンデの代表作「モモ」を取り上げた「『むだな時間』はむだか」の章から、「無駄な時間の潜在力」についての辰濃氏の捉え方です。

(p102より引用) 一見むだに見える時間のなかに、実は大切な役割をはたしているものがたくさんある。街をぶらつく。夕焼けをながめる。・・・そういうむだに見える時間を重ねるところに、生活の厚みとか深みとか、そういうものが育ってくるのではないか。たくさんのむだな時間の集積こそが、実は、暮らしをゆたかにする潜在的な力をもっているのではないか。

 このあたり、私はそこまで達観できないですね。
 「こころのアソビ」を持ちたいとは思うのですが、まだまだです。通勤時間の過ごし方、歩いているときは「podcast」、電車の中では「本」というのも大いに考え物です・・・。強制的なインプットで時間を埋めても、それは決して「こころの充実」にはならないということでしょう。

 辰濃氏は、本書の「まえがき」にこう記しています。

(p14より引用) 飛躍する言い方になるのは承知だが、「ぼんやりしてみようよ」と主張することは、「近代」を問い詰めることになるとも考えている。

 近代化・都市化・過密化・高速化・・・ちょっと前に流行った言葉では「ユビキタス化」・・・。こういう方向を全否定はしません。ただ、無条件肯定ではないですね。

 私の記憶の中で「ぼんやりの時間」を過ごしたとはっきりいえるのは、大学の夏休みのときまで遡るのでしょうか。
 ひとりで大阪南港から船中2泊、フェリーで沖縄へ。那覇の泊港からまた船中1泊で石垣島へ。そして竹富島。竹富島の白い砂浜でぼぉ~と寝転がったり、シュノーケルをつけて珊瑚礁の海に浮かんだり・・・。
 あのときの空と海のインパクトは強烈でした。



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