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薩摩スチューデント、西へ (林 望)

 エッセイでは定評のある林望氏の長編小説です。

 舞台は幕末、薩英戦争敗戦後の薩摩です。攘夷の不可能を痛感した薩摩藩主島津久光は、国禁を犯して薩摩の若人をイギリス留学に旅立たせました。西欧諸国と伍して行くために決断した薩摩藩の先見です。

(p76より引用) 実際にこの留学費用として、運賃や滞在費だけで少なくとも七万両近い大金が動くのであった。今の金にして五億にも十億にもなるかという金額である。それだけの巨費を投じても若き俊秀たちをイギリスに送って一刻も早くこの国を西欧化しなくてはいけない、と五代もまた小松に率いられた藩庁も思い詰めていた。

 ストーリーの大半は、薩摩スチューデントの往路の航海での体験描写です。
 薩摩スチューデントは、最初の寄港地香港国際社会の現実的序列を思い知ることになります。

(p109より引用) イギリスをはじめとする西洋諸国の膨大な富、それに押しひしがれている清国の貧困で無気力な民、香港の空気は上陸初日にして彼らを圧倒し、船酔いとはまた違った意味で酔わせていた。

 香港で定期便に乗換えた後、英国までの長い航海の中で、彼等は多くのヨーロッパ人の日常の姿と接することとなりました。
 その過程で、彼らの「攘夷」が如何に現実離れした考えであったのか、それぞれがそれぞれの体験を通して気づき始めたのでした。

(p163より引用) 「・・・国許には、まだ攘夷攘夷と簡単なこっのように思っちょる者がいくらもおっ。ものを知らんということは、そいこそ恐ろしかこっじゃ。世界の国の付き合いようというもんは、そげな単純なもんじゃ、とうていありもはんど」・・・
 吉田は、その明敏な頭脳を以て、今や急速に攘夷から開国開化へと思想を切り替えつつあった。

 この吉田は、井上馨外務卿の元で条約改正にあたった後、初代農商務次官となった吉田清成です。

 また、地中海の航海で寄港したマルタ島では、海の堅固な要塞とともに西欧文化にも触れました。それは、教会であり、オペラハウスであり、図書館でした。

(p281より引用) このとき初めて西洋式の図書館というこのを実見して、畠山と民部の心のなかに、これから日本が開国して西洋に伍して国を富ましめていくについてはどうしても国民を教育することが必要だ。誰でもが学問をして国全体が知識を蓄えることが必須だ。そのためにはどんなに金がかかろうとも、国家の仕事としてこういう施設を造って、広く知識を国民に与えるようにしなくてはならぬ、とそんな思いが雲のごとくに湧き起こってくるのであった。

 この畠山義成が、東京開成学校(東京大学の前身)初代校長となるのでした。

 一致団結して渡英した4名の使節と15名の留学生。当初の留学目的は諸般の事情で貫徹できず、帰国はバラバラとなりました。
 その後世もまた、様々ではありました。



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