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ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること (ニコラス・G・カー)

可塑的な脳

 タイトルのネーミングはあまりうまいとはいえませんね。しかしながら論じられている内容はしっかりしたものだと思います。

 昨今のインターネットメディアの浸透が私たちの思考スタイルにどんな影響を及ぼしつつあるのかというテーマについて、多面的な観点から考察を進め、興味深い指摘を導いています。

 本書の前半では、脳(神経)の可塑性といった神経科学の話や、文字や本、音声や録音、さらに今日のデジタル・メディアに至る歴史的変遷といったメディア論が語られます。そして、この脳の認知作用とメディアの変遷との関係が、本書の主張のひとつの幹になります。

(p148より引用) 印刷された本・・・は、インターネット接続された電子デヴァイスに移植されると、ウェブサイトに非常に似たものへと転じる。ネットワーク接続されたコンピュータにつきものの注意散漫状態が、本の言葉を包んでしまうのだ。リンクを始めとするデジタルな補強策によって、読者はあちこちに矢継ぎ早に導かれる。・・・印刷された本が有する直線性も、その直線性が奨励する静かな集中も、もろともに粉砕される。

 こういった新しい読まれ方は、脳の思考においてはプラスに働くのでしょうか。それとも・・・?。
 最近になって、文章内のあちらこちらにハイパーリンクが張りめぐらされている新たなメディア「ハイパーテクスト」の認知学的側面からの評価が数多く発表され始めました。その多くは「ハイパーテクスト・ハイパーメディアの幻想」を指摘したものです。

(p182より引用) ハイパーテクストが理解度を減少させるという結論を、すべての研究成果が提示しているわけではなかったけれども、かつて一般的であった「ハイパーテクストは豊かなテクスト経験につながる」という理論に対する「裏づけはほとんどない」ことがわかった。それどころか、圧倒的多数の証拠が示していたのは、「ハイパーテクストが意思決定と視覚処理を要求することにより、読みのパフォーマンスが損なわれる」ことだった。・・・「ハイパーテクストのさまざまな特徴は、結局認知的負荷を増大させることになり、それゆえ、読者の能力を超えた作動記憶容量が要求されたのかもしれない」と彼らは結論した。

 この点は、さらにハイパーテクストとマルチメディアとを結びつけた「ハイパーメディア」に関しても同様の傾向が見られるというのです。

(p182より引用) リンクがより豊かな学習体験を読者に与えるとハイパーテクストの先駆者がかつて信じたように、マルチメディア-ときに「リッチ・メディア」とも呼ばれる-は、内容把握を深め、学習を強化すると多くの教育者は考えた。インプットは多ければ多いほどいい。さしたる証拠もなく長いあいだ当然のことと受け取られてきたこの仮定も、研究によって反証されつつある。マルチメディアによって生じる注意分割はさらに認知能力を酷使し、学習能力を減少させ、理解力を弱めている。

 この指摘は、日本においてようやく盛り上がりつつある「電子教科書」議論にも大きな影響をもたらすものですね。

 本来のリッチメディアは、本筋の理解を深めるための道具であったのですが、注意散漫化を引き起こすことにより、かえって「深い読みや集中した読み」を妨げるものとなったというのです。
 この動きはさらなる本末転倒を呼び起こす可能性があります。

(p194より引用) ブラウジングやスキャニングはまったく悪いことではない。・・・要点をつかみ、もっと徹底的に読むに値するかを判断するために、本や雑誌をざっと読むのもよくあることだ。・・・ここでの話の何が違っているか、何が問題であるかといえば、・・・かつてはある目的のための手段、すなわち、深く検討するために情報の価値を特定する手段であったはずのスキミングが、それ自体目的に-あらゆる種類の情報を集め、理解するための方法として、われわれのお気に入りの方法に-なりつつある。

 自分の頭で考えるということをしなくなる、この傾向は致命的でしょう。

(p197より引用) オンラインで絶え間なく注意をシフトすることは、マルチタスクに際して脳を機敏にするかもしれないが、マルチタスク能力を向上させることは、実際のところ、深く思考する能力、クリエイティヴに思考する能力をくじいてしまう。・・・そうなれば人は、オリジナルな思考で問題に取り組もうとするのではなく、お決まりのアイディアや解決策にもっと頼るようになるのだという。

 この国立神経疾患・卒中研究所のグラフマン氏の指摘に集約されているように、可塑的な脳の性質が、私たちの思考スタイル自体を変化させてしまうのです。

「ネット・バカ」を生むグーグル

 本書の帯に書かれているキャッチコピーは「『グーグル化』でヒトはバカになる」。かなり挑戦的でセンセーショナルですね。

 実際、このグーグルについては、第8章「グーグルという教会」というタイトルの章で取り上げられています。
 そこでは、グーグルの基本思想を、機械工業の効率化を推し進めたテイラーの考え方になぞらえて説明しています。グーグルの教条は「テイラー主義的倫理」だというのです。

 そして、その教条にもとづき、グーグル社は「オンライン広告の販売及び普及」というメインビジネスを営んでいます。

(p223より引用) いっそう多様なタイプの情報をデジタル化し、ウェブ上へと移動させ、データベースに取りこみ、同社による分類とアルゴリズムを通過させ、同社の呼び名で言うところの「断片」のかたちにし、できれば広告を付けたかたちでウェブ・サーファーに分配することだ。

 グーグルはすべての情報をネット内にデータベース化しようと試みています。
 こういった現状は、「検索しさえすれば必要な情報はすぐに入手できる、外部データベースは、人間の脳による『記憶』を不要にするものだ」と考える人を生み出しています。そして、そう考えている人々は、記憶の外部化により「人間の脳を記憶という負荷から解放し、そのリソースを創造的な思考に振り向けることができる」と主張するのです。この考えは正しいのでしょうか。

(p265より引用) 長期記憶を貯蔵しても、精神の力を抑えることにはならない。むしろ強化するのだ。メモリーが拡張されるにつれ、われわれの知性は拡大する。ウェブは、個人の記憶を補足するものとして便利かつ魅力的なものであるが、個人的記憶の代替物としてウェブを使い、脳内での固定化のプロセスを省いてしまったら、われわれは精神の持つ富を失う危険性がある。

 ウェブの効果は、むしろ人間の高度な論理的思考能力のリソースを奪うというのが著者の主張です。

(p269より引用) 記憶を機械にアウトソーシングすれば、われわれはみずからの知性、さらにはみずからのアイデンティティの重要な部分までをも、アウトソーシングすることになるのだ。

 そうですね。やはり人間の知的営みにおいては、外部データベースを補完的に活用することがあったとしても、やはり「自己の脳」の活動が主人公であって欲しいものです。

 さて、本書ですが、読み通してみて興味深い点が数多くありました。
 流れとしては、神経可塑性に関する生化学や文字・印刷・出版等の歴史等を辿ってから、インターネット時代の知的探索活動について論を進めていきます。
 ちょっと迂遠な立論のような印象も抱きましたが、まさに、そういった構成自体が、旧来のテキストメディアのよさを自己証明しているようにも感じられますね。

(再録時(2022年5月)の追加コメント) 
 「スマホ脳」という著作がベストセラーになっていますが、本書は10年ほど前にその先導たる論考を記しています。その内容のレベルは比べるべくもありません。
 まずはこちらの著作に目を通すことをお薦めします。



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