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フューチャリスト宣言 (梅田望夫/茂木健一郎)

ネットの思想

  当代流行のオピニオンリーダである二人、梅田望夫・茂木健一郎両氏の対談を中心にした構成です。

 梅田氏の本は、「ウェブ進化論」「ウェブ人間論」に続いて3冊目です。その点、梅田氏からの情報としては、これはという目新しいものはありませんでした。強いて挙げるとすると「広告に関するグーグルの思想」でしょうか。

(p23より引用) グーグルという会社はいろんな意味で思想を先につくります。・・・そういう思想の一つに、必要とされるところにのみ情報を置くんだというのがある。広告とは情報である、という思想なんです。検索した後に出てくる広告というのは、検索したい言葉が既に入力された以上、その人にとって価値がある情報のはずだ、だからそこに出しているんだ、そういう論理です。その思想に合わないところの場所には、一切広告は出さない。

 この論理から、グーグルの検索のトップページはあれほどシンプルなわけです。あのトップページのページビューを考えるとものすごい広告価値があるはずですが、グーグルは自身の思想を優先しているのです。技術に加え、明確かつ強力なビジョン・コンセプトを礎にしている企業です。

 現在、日本でもグーグル的(あるいは非グーグル的)なWeb2.0企業を謳って多くの会社が立ち上がり始めました。(注:本Blogは今から10年以上前に投稿したもの)
 これらのチャレンジの気風に対する社会環境のサポート体制について、梅田氏はこう評しています。

(p52より引用) バックアップ体制と言ったときに、官僚的なロジックでお金をいくらいくら出して、というのは全然だめで、本当に必要なバックアップ体制って、社会における精神なんですよね。欠点を含む小さな芽に対して「良き大人の態度」が取れるかということ。ここがいちばんのボトルネックです。日本は新しいことをやった人を賞賛しないですね。これが根本的にまずい。

 ただ、これは別にネットの世界だけの話でもなく、今に始まったことでもありません。
 恥ずべき態度です。

ネットの生活

 ちょっと前の調査では、日本語で書かれたBlogが世界で最も多いとのことです。特徴としては、短文の日々の日記的なものが多いらしいのです(このBlogもその類です)が、ともかく一人ひとりが外に向かってメッセージを発信し始めていることは確かです。

 このあたりの状況についての両氏のやりとりです。

(p84より引用)茂木 ただ、そこに読み手と送り手の間の感覚のズレがあるのではないでしょうか。書く側はいろいろな想いを託して書くわけでしょう。それこそ自分の全存在のウェイトをかけて、ところが読む側、コミュニティ側は単なる一つのエントリーとして消費してしまう。なのに、それが自己実現だと思っている人がいると思うんですよ。
梅田 僕の感じは少し違って、仮に消費されるにしても誰かの心に残る。結果として何が起きるかというと、ある種の社会貢献、社会への関与ですよね。自分の考えをおもてに表現する。

 このやりとり、私なりに考えるに、茂木氏の指摘するほどBlogを書き手が真剣になっているかというと、その割合は決して多くはないように思います。自己満足的な独り言であったり、仲間内での交換日記的なノリのものが多数派ではないでしょうか。このBlogも典型的な自己満足型です。
 とすると、梅田氏が指摘するほどの社会貢献や社会関与も、実態としてはその程度は乏しいものでしょう。 ただ、現在のネット環境の中に多数のメッセージが生起しているという状況は、チャレンジングな人にとっては無限のポテンシャルを秘めているとははっきり言えます。

 もう1点、ネットとリアル、2つの世界での生活についてです。
 梅田氏は、自身の生活はネット内が主だといいます。2面生活についての梅田氏のコメントです。

(p105-106より引用) ネットの上で何かを中途半端に有料にして生計を立てようというのは、うまくいきません。・・・ネットは絶対に有料にしちゃいけないんです。無料にしてそれで広告が入るかといったら、先進国でまともな生活ができるほどは普通は入らない。一方、リアルというのは不自由だからこそ、お金を使って自由を求めます。・・・この二つの世界での生計の立て方とか、それから知的満足のしかたとか、いろいろ組み合わせて戦略的に考えていく必要があります。

 このコメントは、ネット人間である梅田氏から発せられているだけに、かえって大いに示唆的です。

 茂木氏もまた、ネットでの生活の拡大・充実を支持し実践しています。
 日本からウィキペディアが生まれず、またオープンソースが馴染んでいない理由について語っている中で、茂木氏は、インターネットの特質をこう総括しています。

(p28より引用) 僕もまさに公共性と利他性こそが、インターネットの特質でなければならないと思います。

立ち位置としての「補助線」

 いつも気にはなっていたのですが、茂木氏の考え方を「活字」で辿ったのはこの本が初めてでした。
 私にとっては、いろいろと刺激的な考え方を知るいい機会になりました。
 たとえば、テクノロジーを擬人化する言い方についての茂木氏のコメントから、「ディタッチメント」という考え方についてです。

(p40より引用) それは、イギリス人のある種のディタッチメント(detachment)、つまり、自分自身の立場を離れて公平客観的にものを見つめるという姿勢につながっている気がします。・・・全体としてどういう潮流が生じているのかを冷静に考えるセンスがある。その判断を、個人個人のストラテジーに関連づけながら、制度設計までも含めてかたちづくることが、イギリスの人たちはものすごくうまい。

 現実を踏まえたプラクティカルなセンスとヴィジョンベース・コンセプトベースの思考とが、うまくバランスし融合された考え方のようです。

(p41より引用) 形而上学的にすぎる「あるべき論」を立てるのではなく、人間というのはこうふるまうものだと理解した上で、人間社会はおそらくこういう方向に向かうだろう、というある種のビジョンや見通しを立てる。そこから、制度設計やルールを考える。

 もうひとつ、茂木氏のコメントで興味深かったのが「補助線」についてのコメントです。

(p136より引用) 僕は、昔からものを考えるときに、「補助線を引く」ということを大事にしています。・・・最近は「自らが補助線になる」ということをいつも考えているんです。自らが身を挺して補助線になり、それによって、周りの人々にこれまで見えづらかった世の中のありようが見えるようになる。そんな活動をしたいなと思うようになったんですよ。

 中学や高校の図形の問題で、「一本の補助線」によっていきなり思考が拓かれた経験は誰しも持っていると思います。
 周りの人々に、そういう爽快な気持ちを与えつつ新たな視界を拓く手助けをするのが「自らが補助線になる」という姿勢であるならば、私にとっても、目指すべき「目標」のひとつにしたいと思います。

 最後に、本書における両氏のコメントの中で象徴的だと感じたものをそれぞれワンフレーズずつご紹介します。
 「はじめに」での茂木健一郎氏のコメントです。

(p15より引用) 未来は予想するものではなく、創り出すものである。そして、未来に明るさを託すということは、すなわち、私たち人間自身を信頼するということである。
 私たちが人間を信頼すればするほど、未来は明るいものになっていく。

 そして、「おわりに」での梅田望夫氏のコメントです。

(p207より引用) 同時代の常識を鵜呑みにせず、冷徹で客観的な「未来を見据える目」を持って未来像を描き、その未来像を信じて果敢に行動することが、未来から無視されないためには必要不可欠なのである。



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