見出し画像

日本の「安心」はなぜ、消えたのか ― 社会心理学から見た現代日本の問題点 (山岸 俊男)

二つのモラル

 私が学生のころは「日本人論」が華やかなりし時代でした。
 ルース・ベネディクトの「菊と刀」をはじめとして、イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」中根千枝氏の「タテ社会の人間関係」土居健郎氏の「甘えの構造」等々の本は必読書でしたね。

 本書は、社会心理学の立場から、興味深い切り口で現在の日本の問題点を論じたものです。

 著者の山岸俊男氏は、まず、「いじめ」等の日本社会の荒廃として指摘される問題について、その原因の論調に批判の目を向けます。安易に「心の教育」の問題に帰結させてしまい、真の原因への対策がとられていないとの問題意識です。

(p29より引用) 日本の社会で起きているさまざまな事件や問題について、その原因を「心」に求め、きちんと子どもたちに教育をしさえすれば事態は改善すると思っている人が、どんなに多いことか。・・・
 すでに世の中は21世紀。ソ連も滅び、中国も社会主義を事実上、返上したというのに、いまだに戦前の軍部や社会主義諸国の指導者たちと同じ精神論を振りかざして、「心がけ」で問題を解決しようとする人が多いことには怒りを通り越して唖然をしてしまうほどです。

 著者は、旧来の日本の農村社会にみられる「集団主義社会」の仕組みに新たな分析と意味づけを加えました。

(p104より引用) 集団主義社会とは社会の仕組みそのものが人々に「安心」を提供することによって、いちいち他人を「信頼」しなくてもいいようにしてくれる社会であるということでもあるのです。

 すなわち、その社会は「構成員の信頼関係」で成り立っているのではなく、信頼がなくとも「社会」として機能する別の要因があるというのです。それは、社会秩序を破ったものが蒙るデメリットの存在です。このデメリットが秩序破壊の抑止力になっているとの考え方です。

 著者は、こういった「安心社会」に対立する概念として「信頼社会」を上げています。そして、この著者の考え方と同じくするものとしてカナダ人学者のジェイン・ジェイコブズ氏の説を紹介しています。

(p242より引用) ジェイコブズは古今東西の道徳律を調べていく中で、人類には二種類のモラルの体系があるということを発見しました。それが「市場の倫理」であり、もう一つが「統治の倫理」です。・・・
 ・・・ジェイコブズが言っている「市場の倫理=商人道」とは、私の言う「信頼社会」において有効なモラルの体系であり、一方の「統治の倫理=武士道」とは「安心社会」におけるモラルの体系であると言うことができるのです。

 ジェイコブズ氏によると、この二つのモラルの体系は相容れないもので、これらを混ぜ合わせると最終的には「何をやってもかまわない」という究極的な堕落を招いてしまうというのです。

(p248より引用) こうした分析を踏まえて「現代の我々は、市場の倫理と統治の倫理の違いをよく理解したうえで、どちらを選ぶかを自覚的に決定しなければいけない」とジェイコブズは警告しているのです

 この点を、最近の日本に当てはめた場合の著者の危惧です。

(p248より引用) ここ10年あまり日本で行われてきたさまざまな改革、たとえば規制緩和、市場の開放・・・が、日本を安心社会から信頼社会へとシフトチェンジしていこうという試みであった・・・
 そして、それは同時に、日本人の価値観を統治の倫理から市場の倫理に転換していこうという試みであったと言えます。

 この大きな社会の流れの中で、いろいろな問題が発生しています。
 それは、格差社会の出現であったり企業のコンプライアンス上の問題であったりですが、これらに対する対処として「武士道の精神」を持ち出す議論について、著者は強く反対しているのです。

(p249より引用) こうした問題が起きるたびに「日本人の精神をたたき直すために、武士道の精神を取り戻す必要がある」というのは、まったく的を外れた議論であるばかりか、かえって社会全体を誤らせる話になるに他ならないと思うのです。

 すなわち、著者の考えでは、この対処策は、「市場の倫理=商人道」に対して「統治の倫理=武士道」を混入するものになるというわけです。

臨界質量

 著者の山崎俊男氏は、「謙虚さ」とか「和を尊ぶ」といった「日本人らしい」と言われる行動は、日本人が古来よりもっている独特の精神性によるものではないと主張しています。

(p52より引用) いわゆる「日本人らしい行動」とは、単に日本の社会環境にうまく適応するための「戦略的行動」にすぎない

 すなわち、ある種「普遍的」な、極めて功利的・合理的な考え方によるものだというのです。

 とはいえ、その合理的判断の基軸(デフォルト)となる考え方は国により異なるようです。

(p72より引用) 状況が明確であればあるほど日本人もアメリカ人も行動の傾向はほとんど変らないということが分かるわけですが、日本人とアメリカ人では「自分の行動が他人にどういう影響を与えるか分からない」という状況においてどうするかという「デフォルト戦略」は明らかに違います。

 この指摘は興味を惹きます。

(p73より引用) 日本人の場合、「自分の選択によって他人に迷惑をかける可能性がある」という前提で行動するのがデフォルト戦略になっているということです。一方、アメリカ人の場合は「自分の戦略は誰に迷惑をかけるわけではない」という前提で、自分の好みにしたがってペンを選ぶことがデフォルト戦略になっているのだと思われます。

 そして、著者は、この日本人的思考についても利他的な要因を認めません。日本人が「なるべく他人の迷惑にならないように行動する」のは、「自分自身は違う考えを持っていても、世間の人は多数派の考えを持つ人に対して好印象をいだくだろうと予測するから」だと言うのです。

 こういった「みんながやるなら自分もやる」といった「『みんなが』主義」の社会において発生する行動現象を説明するにあたって、著者は、「臨界質量」という面白いコンセプトを紹介しています。

(p188より引用) 社会的ジレンマの多くは、他の人たちがどの程度、協力行動を取っているか、非協力行動を選んだかによって、がらりと結果が変ってくるのです。そして、その潮目となる比率のことを、心理学では「臨界質量」と呼びます。

 「臨界質量」とは、本来は物理学の用語で「原子核分裂の連鎖反応が持続する核分裂物質の最少の質量」のことを言います。が、この概念の相似形としての心理学上の現象の説明には、大変興味深いものがありました。

(p202より引用) ・・・臨界質量に基づく現象は、私たちに二つのことを教えてくれています。
 その第一は社会的ジレンマを解決し、人々の間に協力関係を作り出すには、最初から全員に働きかける必要はないということです。
 世の中の多くの人たちは他人の動きを見てから自分がどう行動するかを決める「みんなが」主義者なのですから、協力行動を選ぶ人が臨界質量をほんのわずかでも超えてくれていれば、あとはまるでドミノ倒しのように、「我も我も」と協力行動をする人が出てくるので社会的ジレンマは解決の方向に向かいます。・・・
 しかし、このことは裏を返せば、初期状態が臨界質量に達していなかったとしたら、雪崩を打ったように非協力行動を選ぶ人が増えてしまい、その場合、社会的ジレンマの解決が望めないということでもあります。

 この「臨界質量」の考え方は、組織変革への取り組みにも応用できます。
 変革にあたって、その組織全員を一気に感化する必要はないということです。初期の段階で、臨界質量を越える割合の同調者を何とかして集めることができれば、かなりの程度までの変革は、自走的なサイクルで達成しうると考えられるのです。

 ポイントは、「初期段階での消極的同調者の割合」です。



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?