二つのモラル
私が学生のころは「日本人論」が華やかなりし時代でした。
ルース・ベネディクトの「菊と刀」をはじめとして、イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」、中根千枝氏の「タテ社会の人間関係」、土居健郎氏の「甘えの構造」等々の本は必読書でしたね。
本書は、社会心理学の立場から、興味深い切り口で現在の日本の問題点を論じたものです。
著者の山岸俊男氏は、まず、「いじめ」等の日本社会の荒廃として指摘される問題について、その原因の論調に批判の目を向けます。安易に「心の教育」の問題に帰結させてしまい、真の原因への対策がとられていないとの問題意識です。
著者は、旧来の日本の農村社会にみられる「集団主義社会」の仕組みに新たな分析と意味づけを加えました。
すなわち、その社会は「構成員の信頼関係」で成り立っているのではなく、信頼がなくとも「社会」として機能する別の要因があるというのです。それは、社会秩序を破ったものが蒙るデメリットの存在です。このデメリットが秩序破壊の抑止力になっているとの考え方です。
著者は、こういった「安心社会」に対立する概念として「信頼社会」を上げています。そして、この著者の考え方と同じくするものとしてカナダ人学者のジェイン・ジェイコブズ氏の説を紹介しています。
ジェイコブズ氏によると、この二つのモラルの体系は相容れないもので、これらを混ぜ合わせると最終的には「何をやってもかまわない」という究極的な堕落を招いてしまうというのです。
この点を、最近の日本に当てはめた場合の著者の危惧です。
この大きな社会の流れの中で、いろいろな問題が発生しています。
それは、格差社会の出現であったり企業のコンプライアンス上の問題であったりですが、これらに対する対処として「武士道の精神」を持ち出す議論について、著者は強く反対しているのです。
すなわち、著者の考えでは、この対処策は、「市場の倫理=商人道」に対して「統治の倫理=武士道」を混入するものになるというわけです。
臨界質量
著者の山崎俊男氏は、「謙虚さ」とか「和を尊ぶ」といった「日本人らしい」と言われる行動は、日本人が古来よりもっている独特の精神性によるものではないと主張しています。
すなわち、ある種「普遍的」な、極めて功利的・合理的な考え方によるものだというのです。
とはいえ、その合理的判断の基軸(デフォルト)となる考え方は国により異なるようです。
この指摘は興味を惹きます。
そして、著者は、この日本人的思考についても利他的な要因を認めません。日本人が「なるべく他人の迷惑にならないように行動する」のは、「自分自身は違う考えを持っていても、世間の人は多数派の考えを持つ人に対して好印象をいだくだろうと予測するから」だと言うのです。
こういった「みんながやるなら自分もやる」といった「『みんなが』主義」の社会において発生する行動現象を説明するにあたって、著者は、「臨界質量」という面白いコンセプトを紹介しています。
「臨界質量」とは、本来は物理学の用語で「原子核分裂の連鎖反応が持続する核分裂物質の最少の質量」のことを言います。が、この概念の相似形としての心理学上の現象の説明には、大変興味深いものがありました。
この「臨界質量」の考え方は、組織変革への取り組みにも応用できます。
変革にあたって、その組織全員を一気に感化する必要はないということです。初期の段階で、臨界質量を越える割合の同調者を何とかして集めることができれば、かなりの程度までの変革は、自走的なサイクルで達成しうると考えられるのです。
ポイントは、「初期段階での消極的同調者の割合」です。