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簡単には行きつかない②

紹介された総合病院で確率は低いけれど、分子標的薬を使ってみましょうと言われて、母は珍しく首を縦に振っていた。
あんなに病院嫌い、薬嫌いな人が…言葉がでなかった。
その上、かなりの高血圧で近所のクリニックに掛かりなさいと言われる。

母の死はわたしの中で遠かった、死ぬわけがない。

幸いなことに効くか効かないか分からない分子標的薬は効いてくれた。
やはり身体はきつくなったものの、まだまだ以前のように自分のことは自分で出来る。
買い物にもわたしが車で連れて行き、自分の好きなものを買い、以前と変わらぬ生活が出来ている。

2ヶ月後、私が骨折するまで何とかなった。
それは今から2年前のこと。
家で洗濯物を取り込もうとして、左足をひねったように付くとメリメリメリと変な音がした、右足も転がしてあった目覚まし時計にぶつけた。
両足骨折…
まるで交通事故だよねと、あとあとまで語り草。

自分で救急車を呼び、昔からのかかりつけの整形外科へ
ところが救急隊のおっちゃんに乾癬を見とがめられた。
「それはなんですか?」
「乾癬《かんせん》です」
といったのにおっちゃんは
「疥癬《かいせん》です」と病院に無線で伝えている
「それはうちでは受け入れられません」
わたしは心の中で困ったが、ウルウルの必死な思いで
「疥癬《かいせん》じゃあありません、乾癬《かんせん》です!」
と大声で叫んだ 
おっちゃんが無線に
「疥癬《かいせん》ではなくて乾癬《かんせん》です」
といって、わたしに無線の声を聞こえないようにした。
病院からは「乾癬ならば受け入れます」と返答があり、無事に救急車はかかりつけの病院に向かった。
救急隊のおっちゃん、勘弁してくれや~。
疥癬《かいせん》は人にうつる皮膚病、乾癬《かんせん》はうつりません。
えらい目に合うところだった。かかりつけ病院は整形外科と内科だけの患者を受け付けるから、感染症はダメらしかった。

救急車で病院まで、病院ではいつも見慣れた処置室へ、医院長と看護師さんが待っていた。

「あぁ、こりゃひどい。オリンピックは無理だね」 
えぇ~頭ん中真っ白、オリンピックなんて2ヶ月も先のこと
オリンピック、オリンピックと頭の中で木霊する

わたしに待っていたのは2回の手術

1回目は左足の創外固定と右足の骨折に針金でとめる手術

一度目の手術では麻酔が切れてから痛くて痛くて夜中中わめいた、同室のおばさま方は睡眠薬を飲んで休んでくれる。

2回目は左足に金属棒をいれる手術で麻酔は硬膜外麻酔で痛くなかった。
気付いたら、7月になって
車椅子にバルーンはめて、便秘でとんでもなく不自由な日々

併設のリハビリ病棟に移されて、毎日必死にリハビリをした

しばらくはつらくて母には連絡をできなかった
声を聞いたら絶対に泣く

8月に入ってやっと自分にも少し余裕ができて母に連絡を出来るようになる

9月の声を聞く頃にやっと退院
退院の時には独歩で歩けるようになっていた
そして骨粗鬆症だと分かり、その治療も追加された
毎日の自己注射を約一年
その後は飲み薬となり今に至る

退院した日、わたしは息子につれられてスーパーへ
人ごみが怖かった
そのあとに母のところへも連れて行ってくれた

母はわたしの顔見るなり泣いた
わたしも泣いた

娘の姿が自分よりヨレヨレで
何にも出来ないわたしに驚いた

母は息子の前でわたしに向かって
「あんたじゃないとダメ」と泣きながら言った
それは娘と孫では違うよね、若さ故母のその言葉に息子、怒り爆発





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