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FBライブを"ポチッ"から癌サバイバーに 第9話

輸血



日に3-4回吐き気止めを飲んでいたが、身体をちょっとでも動かすと嘔吐。つねにティッシュとビニール袋を側においていたが、それでも間に合わず寝間着や布団を汚してしまった。
娘も心配し私のところに来たが、娘の前でも激しく嘔吐してしまい、こんな姿を見せたくなく悲しかった。

胃瘻で栄養をとっている間は、Youtobeでいろいろなお料理番組(Acquapazzaの日高良実さんの番組は初回から視聴)、食べ歩きを観まくった。食べ歩きは、出身地の神戸、大阪、京都まで征服した。懐かしい商店街、かき氷に、コロッケ、お好み焼き、そばめし、明石焼き.... 食べ歩きのレポートをしている若い女性は一体1日どれだけ食べれんねん~と感心。これ食べたい、あれ食べたい、脳で味を思い出し、想像しながら、胃ろうから栄養をとった。胃ろうの消毒は、週に3回、ヘルパ一さんが家に訪問。この費用も健康保険から支払われた。

ドイツでは従業員が病気になると雇用者は6週間給料を払わなければならない。7週目からは健康保険が給料の70%をマックス72週間毎月支払う。

会社側は試用期間中なのでこの法律は該当しないと主張、健康保険側は、これは法律だと主張。一体どうなるのか、不安だったものの、もう身体は治療のための通院とトイレに行くだけで精一杯だった。
胃瘻のヘルパ-さんが、私が住んでいる区域のソーシャルワ-カーに連絡を取って、その方が私の委任を受けた形にし、健康保険会社とコンタクトを何度かとった。解雇された後、健康保険からの支払いがすぐに始まった。また、その他、役所への書類も記入してくださり、電話での問い合わせも代行、娘のこともとても心配してくださり、子供にカウンセリングが必要ないか、子供が12歳までの家庭には買い物やお掃除のヘルパーさんも保険から支給されるから利用すべしと言ってくださった。

毎日曜日、ご主人が乳がんになった知人がご主人にも作っているので、ついでにということで同じス一プを、水曜日には教会の牧師先生夫妻が、日本食とおやつを子供のために運んでくださった。本当に助かった。その他の曜日は娘は自炊をしていたようだ。私はベッドから動くことができなくなってきた。水ももちろんだが、唾液も飲み込めなくなるほど、喉が強烈に痛く、痛み止めを何度も飲んだ。娘がドイツ料理のソ-セ-ジを食べているのをたまたま見た時、『早く子供にご飯を作ってあげないと...』と思った。

放射線治療のために迎えにきてくれた車に乗るまでも吐き気が強く、車の中では嘔吐しないように我慢するのに必死だった。金曜日は抗がん剤投与のために入院したが、病棟から病棟にも歩けなくなり、車椅子やベッドごとの移動になった。車椅子を押されて放射線照射の病棟に行った。終了後、車椅子のお迎えの方が来るのを待っていたが、待てども待てども現れない。看護婦に聞くと、その方は今お昼休みだという。待つしかなかった。ALS(筋委縮性側索硬化症という難病)で亡くなった父のことを想った。父は車椅子の生活を長くしていた。日本に帰り久方ぶりに会うと、車椅子からこけたようで、顔の右目の周りに打撲の跡がひどく、びっくりしたことがあった。亡き父も車椅子生活で、なかなか来ない介護タクシ-をひたすら、ずーと待っていたかと思うと涙があふれた。自分が車椅子を使うことになり、初めて父や車椅子を利用されている方の気持ちや状況がわかった。

毎週月、木には、放射線照射の後に採血、水曜日は金曜日から入院のため、コロナテストがあった。採血の結果の後、何かあるとすぐに医師から電話があった。白血球がどうやら下がり、危険な状態らしく輸血に来るように言われた。採血をし、数時間すると私の血液に合った輸血が届いた。3リットル以上はあったかと思う。真っ赤な血の袋を見て、こんなにたくさんの血液を献血してくださった方のおかげで私は救われていると、今まで献血なんで自分に関係ないと素通りしていた自分が恥ずかしかった。

口の中はもうどうなっているのか、わからないほどの口内炎だった。喉はただれ、痛み止めを飲む間隔が短くなっていた。






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