マレーシア女性単身駐在 6年間の奮闘記
こんにちは!NORIKO@どっぷりマレーシアです。
こちらでは、2006年に来馬してから最初の6年間の、孤軍奮闘時代の事を書いています。
念願かなったマレーシア駐在だったとはいえ、 本当に務まるのか、どんな生活が待っているのか、と不安でたまらなかった私が、心に置いて自分を励ましていたのが上の言葉だ。
第一関門:車の運転
マレーシアに着いたその翌日、前任者の先輩から渡されたのは、車の鍵と分厚い地図帳。そして、 「はい、運転して」と。
入社して3年間、営業で関東を毎日のように運転していたけれど、マレーシアでの運転はもちろん初めて 。左側通行・右ハンドルなのは日本と一緒だけど、交通マナーが全然違う。ウインカー出さない、割り込みは当たり前、スピードもガンガン出すし、車と車の間からすり抜けていくバイク。
スマホどころかナビもない時代である。分厚い地図帳で、会社からお客さんへの道のりをたどり、該当する地図帳のページに付箋を貼り付けて車に乗り込む。常にアップデートされるナビとは違い、地図はもちろん更新されない。マレーシアの道はしょっちゅう工事をしていて、地図上では繋がっているのに行き止まりになっていたり、急に一方通行に変わっていたり、ハプニングだらけである。 毎日泣きながら運転していたのを覚えている。
泣きながら スタッフに電話をかけて助けを求める。
私:今全く自分がどこにいるかわからない(泣いてる)
スタッフ:何が見えるの?
私:メイバンク(マレーシアを代表するメガバンク)と ペトロナスステーション(同じくマレーシアを代表するガソリンスタンド)
スタッフ:うーん…それってどこにでもある風景(笑)
とこんな感じ。
会社からA社に行けるようになっても、自宅からA社に行く場合にはまた1から道を覚えなければいけない。 A社からB社に行く場合、会社からB社に行く場合、毎日間違えては覚える。しまいに、「全ての道はローマに通ず!走っていればいつかたどり着くさ」なんて思うように。
そんなことをがむしゃらに続けているうちに、いつしかクアラルンプール一帯の地図がしっかり頭の中に入っていた。今ではWazeという何とも便利なナビのアプリがあるから、この私の特技が活かせるチャンスは全然ないんだけど、当時はローカルスタッフに手書きの地図を書いてあげていた。Wazeは到着時間や渋滞情報もわかるので、今では私も毎日使っている(笑)文明の力はありがたいものだ。
第二関門:英語
もう一つ大変だったのはもちろん英語である。私は大学で文学部英文学科を卒業している。英語は大好きで、それなりに勉強もしてきた。駐在で来る前に、マレーシアに何度か出張したこともあったし、入社1年目には1ヶ月間の研修でペナンに滞在した事もあった。
でもやっぱり駐在員として滞在し、仕事をするとなると、話は全く違う。
マレーシア人の「マングリッシュ」と呼ばれる強い訛りが聞き取れない。日本でアメリカ英語を勉強してきたが、マレーシアで使われているのはイギリス英語。社内の会議ではいつも頭の中にたくさんのハテナが飛んでいた。
例えば、truck(トラック)はlolly、 elevator(エレベーター)はlift、gasoline(ガソリン)はpetrolなど。
「例えば」として日本人なら学校で誰しもが習っただあろうfor exampleを使っているマレーシア人に出会ったことがない。みんなif let say…というのである。最初それが聞き取れず、何言ってんだ?!って思っていた。
私が学んできた英語、学んできた発音では通じないということが分かり、とにかく相手が使っている英語を真似した。相手が使っている単語を使った。そうして日本人1人という環境の中で、英語ができないと仕事が取れないという崖っぷちに追いこまれ、みるみる私のマングリッシュは上達していったのである。今では「日本人とは思えない!」とローカルに褒められるほどのマングリッシュが話せます。えへへ。
3年目ぐらいだっただろうか、会議でローカルスタッフに英語で堂々と言い返していた私を見た上司が、「英語めちゃくちゃ上手になったなぁ!」と言ってくれた時の喜びは今でも忘れられない。
第三関門:本社からのプレッシャー・スタッフとの信頼関係の構築
精神的に一番きつかったのはこの第三関門かな。。
社内では最初、今までの駐在員は皆30代の中堅の男性社員だったため、「なんでこんな若い女が来たんだ?」という目で見られていた。ローカルスタッフから見たら高給取りの私に対する風当たりは決して良くなかった。
そして本社とマレーシア支店の間で、板挟み状態になることもしばしば。
本社からの大きなプレッシャーと、スタッフからの軽蔑。基本楽観的な私でも精神的にかなりきつかった。行き詰ったときは冒頭の言葉を思い起こし、何でも誠意を持って対応して、とにかく一つ一つ信頼を築いていくしかなかった。
第四関門:環境の変化
最初は多分水が合わなかったのだろう(マレーシアは硬水、日本は軟水。硬水でシャンプーすると、髪の毛見事にキシキシになります)。 水と仕事のストレス、環境の変化もあり、顔中にニキビができた。
それも一つ一つ経験したことで体も徐々に適応し、免疫力がつき、強くなっていったと感じる。
それでも頑張れたのは
毎日泣きたいことばかりで、孤独で、日本との違いに何もかもが嫌になって、夜中に家で発狂したこともあったな。
何度も日本に帰りたいと思ったけれど、こんな私にチャンスをくれた日本の社長、送り出してくれた両親・友人・婚約者(当時)のことを思うとそう簡単には帰れなかった。あれだけマレーシアに行きたいとアピールしていたのに、なんだもう帰ってきたのかとは絶対に言われたくなかった。信用を裏切りたくなかった。
そんな私の体当たりの奮闘をマレーシア支店の社長はしっかり見ていてくれ、最初は2年間の研修ということで渡航したが、結局6年間も働かせてもらえた。その間主人と出会い結婚することになり、日本には帰らないということで、駐在員から現地採用に変えてそのまま勤務させて頂いた。
結局長女を出産する直前で退職したのだが、退職の日「働きたくなったらいつでも帰ってきていいよ」と言ってくれた現地の社長にも、本当に感謝している。
駐在して5年ほど経った私に起きた変化
最初の数年間、日本への一時帰国は何よりの楽しみだった。
日本に帰ったらあれ食べよう~あそこに行こう~誰と会おう~♪ってわくわくして、日本に帰る前の日は修学旅行の前日のようで、ドキドキして眠れなかったものである。
それが5年ほど経ったくらいから、だんだんマレーシアの方が居心地が良くなっていった。日本に帰ると窮屈さや違和感を覚えるようになる。東京の満員電車、以前は普通に乗っていたが、今は辛い。あんなに他人とくっつくことなんてマレーシアでは無い。日本の役所や店員さんの神対応に感動を覚えるけど、疲れてしまうことも。
そうしていつしか、マレーシアの空港に戻ってくると「わぁ~~、帰ってきたぁ」という安心感を覚えるようになった。
今思えばそのくらいの時期が「どっぷりマレーシア」に足を踏み入れていた頃になるのであろう。
終わりに
長くなりましたが、私の駐在員時代の奮闘記を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!!
私は特別な資格や経験もない一社員でした。やったことといえば、「ベストをつくせ」の言葉を胸に、誠実に、一つ一つの難題に立ち向かっていったことだけ。決して私だからできた事ではないんですね。あとは、一人ひとりとの出会いを大切にしてきたから、人から大切にしてもらったのかな。と感じます。
本当に人に恵まれてきました。
この私の奮闘記はお金を出しても買えない、私の財産であり、原点であり、今となっては大切な宝物となりました。あんな風に追い込まれた環境にいたこと、当時は地獄以外の何でもなかったけれど、そのおかげで強い精神力と語学力、適応能力、全部身に着いたのだと思います。
この経験が誰かの励みになり、誰かの気持ちを少しでも前向きに出来ていたら、こんな嬉しいことはありません。