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Only The Piano Knows④

ジョンは土曜日の午前中を店の定休日にすることにした。
アイヴィーへのレッスンに充てることにしたのだ。
アイヴィーはギターを背負ってジョンの家にやって来た。
まだこのころはグロスターはのどかで、12歳のアイヴィーが一人で出歩いても問題にはならなかった。
もっとも、叔父夫婦は全く彼の動向については無関心なようだった。
「こんにちは」
アイヴィーはにこっと笑って玄関を開けたジョンに挨拶した。
最初の怯えた風情が嘘のように、彼は表情豊かになった。
「いらっしゃい」
背丈が伸びたな、とジョンは思う。
初めて会った時はやせっぽちで、10歳の割に小柄だと思ったが、ここ2年でアイヴィーは普通の子どもらしく大きく、肉付きが良くなった。丸く子どもらしい頬になったと思う。
満足のいく食事を与えてもらえないことに心を痛めたジョンが、学校に行く前に店に寄るようにアイヴィーに促した。ジョンが家から持ってきた簡単な食事を店のカウンターに並んで二人で朝食を摂って、それからジョンはアイヴィーを見送るのだ。
昼食は叔母の機嫌が良ければ持たせてもらえるようだったが、それがないときも多かった。その時はジョンの店の向かいにある、ダイナーの女主人、リジーが仕込みのついでに用意してくれるようになっていた。ノエルの妻のポーラはギターレッスンの度にこれでもかというほどの大量の料理を彼にふるまっていた。アイヴィーはジョンの周りの人たちのケアを受けて大きくなっていた。
「じゃ、アイヴィー、ついておいで」
ジョンは吹き抜けになっている階段を先導した。
アイヴィーはそのあとをてくてくついて行く。
ジョンの家になんども行ったことはあったけれど、2階に案内されるのは初めてだった。
きょろきょろとアイヴィーは好奇心に駆られてあたりを見回す。
ジョンの家はクラシカルな趣のある立派な家で、あちこちに絵が掛かっていたり、レリーフが飾ってあったりする。
アイヴィーは労働者階級の子どもだったから、こんな贅沢な家には住んでいなかった。
小さな2階建ての家に両親と3人で住んでいて…
こんな大きな家に一人住んでいるジョンはさみしくないのかと彼は思う。
2階にあるいくつかの部屋のうち、大きな観音開きになる扉をジョンが開けた。
その先に、大きな窓と、大きなグランドピアノがあった。
アイヴィーは目を見張る。
まるで、昔でいう貴族の家のようだった。物語に出てきそうな、ペルシャ織の絨毯の上にそのスタインウェイがいて、壁面には一面の楽譜と、CDやレコードがひしめき合っている。
ピアノと反対側には猫足のソファとテーブルが置かれており、シャンデリアが釣り下がっている…。
「どうした、アイヴィー?」
目を丸くして立ち止まっているアイヴィーを振り返ってジョンは声をかけた。
「ううん…びっくりしちゃって。貴族のお屋敷みたいなんだもん」
「ああ…俺の祖父の頃からこんな感じでね」
「アイヴィー、ギターはどこかにおいて、早速始めようか」
ジョンはそういうと、鍵盤蓋を開けた。さらに。久しぶりに屋根を少し開ける。
大きな音で練習したほうがいい。そのほうが上手くなれるから。
戸棚の中から一冊、譜面を持ってくると、ジョンは譜面台にそれを置いた。
「じゃあ、アイヴィー、この椅子に座って」
アイヴィーはマーティンのケースを置くと、小走りに走ってピアノの前に座った。
ずらりと並んだ鍵盤と、黒光りする躯体。
それはギターとはまた違った迫力だった。
ジョンはちょこん、と座ったアイヴィーを見ると、自らも別の椅子を持ってきて座った。
「さて、弾いてみるか」
久しぶりの教えるという立場にいささか照れが入る。
デボラが生きていたころはまだ地元の子どもたちに教えたりもしていたのだ。
彼女が亡くなってからはそれすらできなくなっていた。
「まずな、弾き方だ。両手を自然に白い鍵盤に置いてごらん。そう。そして、その手を少し丸める。手の中に小さな卵を抱える感じだ。ピアノは常にこのスタイルで弾く…手のひらに卵を常に意識するんだ。割れてしまうから力は入れられないだろう?指にだけ力を入れる。それで鍵盤を弾く。反対に手首や手のひらは力を入れない。そうすることで柔軟に弾くことができる」
アイヴィーは真剣だ。だが、彼はギターを弾いているからか指先だけに力を入れて、他は力を抜くという感覚がわかりやすかったようだ。ギターも手首には力を入れない。もっと言えば弦を押さえる時もさほど力は入れないのだ。力むとスムーズなフレットや各弦の移行がしにくくなる。
「鍵盤は弾くのに力がいるんだね」
「そうだなあ。強弱は自分の手で生み出さないとならないからね」
思ったよりも鍵盤強くたたかないと音がきちんとならないことにアイヴィーは驚いている。
ギターならちょっと指をひっかけるだけでも音が出るほどだし、エレキギターだったらボリュームダイヤルでも強弱が出せるからだ。
ピアノはそっと叩くと全く音が出ないようなときすらある。
ジョンはアイヴィーにその日は運指と、スケールの練習を教えた。
基礎も基礎でアイヴィーにはつまらなかったかもしれないが、これができないとうまく弾くことができない。
案の定アイヴィーはこう言った。
「おじさん、一曲弾いてよ!」
そして、こうも付け加えた。
「あ、もちろん、おじさんが嫌じゃなかったらだけど…」
ジョンはアイヴィーの頭に手をやるとくるくると撫でた。
「腕はめちゃくちゃ衰えちまったがなあ…」
そう言い訳をして、彼は鍵盤の前に座る。
何がいいだろう。何が弾けるだろう…
そう思って心を決めた、その曲は。I Got Rhythm。
身体はずむようなメロディが彼はお気に入りで子どもが小さいときは良く弾いたものだ。
実際ジョンの腕も肩も弾んでいる。
往年のような見事なアレンジはとても無理ではあるが、簡単な発展形を弾いてみた。
「…ダメだなあ。長らく弾いてないからなあ…」
ジョンのため息交じりな言葉をかき消すように、アイヴィーの拍手が聴こえた。
「ありがとよ」
「ダメじゃないよ!すごいよ!これ、なんていう曲?」
「ああ、ガーシュインのI Got Rhythmって曲さ。店にレコードがあるから興味があったら聴いてみたらいい」
「うん。僕、これギターで弾いてみたい!楽しい!」
アイヴィーの顔が輝いている。
どこかで見たことのある表情だ。デボラも、よくこんな顔をしてジョンに今の気持ちを訴えかけてきたものだった。
デボラを思い出しかけて、ジョンははっとした。
「アイヴィー!おまえ、はじめてじゃないか。自分の意思を伝えたのは」
「え?」
アイヴィーはきょとん、とする。よくわかっていないようだ。
「これギターで弾いてみたい、楽しいって言ったぞ」
ジョンの言葉にアイヴィーは目を空にさまよわせる。
「…言った…」
「そうか、そうでなきゃなあ。おまえは12歳なんだ。欲しいものもしたいことも全部伝えていいんだぞ」
ぽんぽん、と彼の小さな肩を叩く。
でも、彼の表情は曇っていく。
「…言ったって、叶わないから…」
小さな声が唇から漏れた。
そうだな。
ジョンは大きく頷いた。
言ったって叶わないこともたくさんある。
ジョンはデボラにもう二度とこの世では会えない。
「でもな、アイヴィー。言わなかったら絶対に叶わないんだぞ」
「……」
「みんな、エスパーじゃないんだ。おまえが何を思っているのかおまえが伝えない限りわからないんだ。だから、おまえの気持ちを声に出していかないと叶わないんだよ」
デボラも…言ってくれればよかったのだ。
最期の最期なんかじゃなく元気な時に「オーディエンスの前じゃなくていいから、もう一度あなたと弾きたいの」と。
彼女はそれを声にしなかった。だからこそ、彼女の願いはかなわなかったともいえるのだ。
「まずはな、言える人にだけ伝えていけばいい。言える人がだんだん多くなっていけばおまえの願いがどんどん叶うようになる。だから、まずは俺に伝えればいい」
唇をかみしめて、ジョンをみつめるアイヴィーのヘイゼルの瞳が揺れた。
「俺は、おまえがこれを弾きたいと言ってくれて嬉しかったよ。おまえが鍵盤に興味をもってくれたことも嬉しかったよ」
ちょっと照れ臭かったが、ジョンは勇気を出して彼に伝えた。
アイヴィーは唇を引き結んだまま、無言でうなづいた。


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