見出し画像

ロックンロールは反体制的か?

【かつてはロックは反体制的だった】
ロックンロールはかつて(私の学生時代)、左翼的で反体制的な音楽、と言われ、私はその時代に「軽音楽部」をしている。ロックをやりポピュラーをやり、高校生の時はブルーグラスにたどり着いた。ブルーグラスは電気楽器を一切使わない、米国のカントリー・ミュージックの源流といわれるものだ。

【「電気」が必要無い音楽】

かつてブルーグラスをやっていた自分が思うに、ロックミュージックは安定した電気の供給がなければ成り立たない音楽である以上、その根底には明らかに「(安定した電力を供給する)体制側でいなければならない何か」があるものだ。だから、ロックは良く言っても、社会的にはコップの中の嵐以上のものにはなり得ない。だから、多くの社会で容認される。破壊的に見えて、実は社会の破壊はできない音楽だからだ。

実際、1960年代、1970年代の米国では、ヒッピーと呼ばれる反体制を標榜する若者たちが、砂漠の中で都市から離れた独自のコミュニティを作った。全部存続はできず失敗している。失敗したとは言うものの、徹底させただけ、人間社会とはなんなのか?という学びも深くあったのではないかと、私は想像している。

【暴走族も同じか?】
暴走族は反社会的のように見えて、結局は石油がなければできないし、最近は「チャリンコ暴走族」なんてのもあるわけだが、結局のところ何らかの文明の道具である「乗り物」を必要とするものだから、これも同じようなものなのだ。

【与えられた環境を自分の力と勘違いする】
ロックンロールや暴走族のパワーは全てウクライナのような戦場では成り立たないのは自明だ。電気などの人工的エネルギーのインフラを、自分の力と勘違いして使っている以上、ロックンロールとは文明に非常に密着したものであり、基本的に脆弱な基盤の上に成り立つ音楽でしかない、というものなのだ。「ロックンロールが反体制的」なのは、クルマで森林の破壊視察に行く、という「自然環境の破壊をしつつ自然を守る」という矛盾、言い換えれば、暴力反対を言うために暴力を使う、というようなことと同じ矛盾をはらむ。これは自分に与えられた環境やインフラやそれを作る人の、その必然への眼差しが自分には欠けている、という自覚がないからだろう。インフラやそれを維持する人がいることが見えないところにいるだけだ。

【電気が来ない地域でも土着の音楽はある】
電気が来なくなったり、不足している地域、電気供給のインフラがもともとなかったりする地域、安定した供給ができない地域ではロックンロールは存在が認められない。

【ロックンロールは資源の無駄である?】
ある意味「インフラの安定供給ができる先進国の文明基盤の上にしか成り立たない音楽」がロックンロールだ。であれば、社会の体制の安定は必須であり、ロックンロールは釈迦の手の中で踊るものでしかないだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?