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「記憶容量」という個性。

【悪口・陰口・誹謗中傷ではなく】
ネットでの誹謗や中傷、悪口、陰口は非常に増えているが、人間の社会ではネット以前でも「陰口」などは当たり前にあったのは、良く覚えている。自分もされたことがある。正直なところ、自分では他人への誹謗中傷はしていない。代わりに直接「それは不味いんじゃないかと思う」と面と向かって言う。相手が聞く耳を持たない時はその周辺の人に、陰口というのではなく「あの人に直接言っても取り合わないので、あなたに言う」と、前置きして、それを言う。

【自分に向いた誹謗・中傷はどうする?】
自分に対する陰口や誹謗中傷は、いちいち聞いてはいるものの「これは当たってるな」と思えば、それは自分の栄養にするつもりでいるから不快感はない。全く的はずれだったり、それを言う人の自分の保身のためだけの中傷であっても、それは普通は受け流す。的(まと)はずれであれば相手にするとか気を揉む必要はないし、それを言う人の保身や栄達等のためだったら、特に言うことはないものの、その行為や言動に自分とその周辺への悪影響があるのであれば、きちんと行動を表に出して言うのが、人の組織をまともに動かすためには必要になることがある。後者の場合は、真正面から隠し事無く、裏に隠れているものを表に引っ張りだし、できるだけ早く現状復帰をすることにしている。全てをオープンにして行かないと、うまく行くものもうまく行かなくなることが多いのを、経験的に知っているからなんだね。自分は、ね。

【某タレントの暴言事件から考える】
先日もネットに限らず「暴言」を売り物にしているタレントが広告等から撤退せざるを得ない状況に陥ったが、タレントは人格はどうであれ「キャラクター」で売るものだから、その人ではなくその人が演じている「なにか」が、社会で好ましくないと判断されれば、退場すれば世の中は平穏に戻る。タレントという職業をやめれば、それでその人の人生は変わり、つながっていくだろう。タレントは所詮タレントという「ポジション」であり、そのポジションを簡単に降りることができれば、後は誰にとってもどうでもいいことになる。ゆえに、いつでも自分で自分を変える力を持っておくのが最強、ということになるだろう。

【なぜ「社会」で「キャラ」が必要か?】
人は社会で生きていくとき、なんらかの「キャラクター」として仮面を被って社会に参加することを強いられる。生の人間は実は複雑で不可解で不連続でとりとめがないものだが、仮面を被って「キャラクター」になることで、他人から「彼(彼女)はこういう人」という「単純化」された「他人」として、他人の限られた記憶容量を持つメモリーに、使うメモリーを節約して小さくなって入っていく。人の脳は限られた量のメモリーしか持たないから、そうせざるをえない。しかし、その「他人(自分)の脳の中で小さくなった他人」は、現実の人よりも小さくなっているために、当然、その人の「全て」ではないので、その人と接するときに矛盾が起きてトラブルになることがある。

「あいつは、ああいう人だと思ったのに違った」ってことだね。

【人間の記憶容量は限られているから】
脳の記憶容量には限りがあり、個人差もかなりある。メモリー管理が上手い人もいればそうでない人もいる。さらにその人が脳内で持っている様々な記憶も大小があり、多様で違う。

だから小さな記憶容量しか持たない人はこの社会では生きにくくなる。世の中が複雑化し多様化した人が多く目の前に時系列的にも頻繁に現れては消える都会には、この記憶容量が小さな人は生きにくくなりトラブルも多く、プレッシャーも多く感じるはずだ。そして、それは「個性」なんだな。

【自分の「記憶容量」に自覚的になろう】
そして、複雑で多様な社会で苦しむ「記憶容量が少ない人」が、かかるプレッシャーに耐えきれず、都会から仕事場から家庭から逃げることもできず、匿名での誹謗中傷でうさを晴らせる場=自分の生きている場所の確認ができるように見える場が、ネットやその上に構築された「SNS」なんだと、ぼくは思うな。

あなたの記憶容量は?

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