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日本と「台湾」の複雑さ

【10月10日は「雙十節」】
十と十が2つ並ぶので「雙(双)十節」。大陸中国の政府はこの日にお祝いをし、台湾の「中華民国政府(元は中国国民党)」もお祝いをする。日本でも在日の台湾人の人たちが、日本の各地で「お祝い」のパーティをする。横浜の中華街でのパレード(2011年の映像 - この年は辛亥革命勝利から100年でもあり、特に盛大だった)は特に首都圏では有名なものだ。この日は、「孫文」「辛亥革命」で当時の大陸中国を領土としていた「清」を下して大陸に中華民国政府を作った日であり、お祝いはそれを祝う。日本はといえば、この2011年には「東日本大震災」があり、それもあって台湾から日本への要人の訪問が引きも切らなかった。ちょうどその2011年、私は東京で発行されている「台湾新聞」で日本語版の副編集長をやっていたので、この季節はとにかくあちこちのパーティの取材をして回っていて、おそらくこの10月10日が台湾新聞時代、一年で一番多忙な時期だったが、辛亥革命百年の2011年は特に忙しかった。

【この日を祝う?祝わない?】
実は、台湾といっても、近代にはこういう歴史がある。つまり、この日を「素直に祝う」台湾人もいればそうではない台湾人もいる。この事情を考えれば「雙十節は中国国民党のお祭りだから、自分とは関係ない」という人もいるのだ、ということは覚えておいたほうがいい。

【「祝う人たち」はなにを祝っているのか?】
しかし、「共産党の政府」である現在の大陸中国の政府と、それとは袂を別ったはずの「台湾の中華民国政府」が、なぜ同じ「孫文」を「国を作った人」として認め、同じ「雙十節」を祝うのか?歴史を見れば、清を下したのは「中華民国(中国国民党)」であり、現在の大陸中国の政府とは違うはずだ。両者はお互いに「敵対勢力」であるはずだ。しかしこの敵対すると見える両者には、共通点がある。「漢民族である」ということだ。つまり、政治的な主張での対立はあるものの「清」を作った民族である「満州族」とは違う。つまり、「雙十節」は、国の政府のお祭りではあるが、内容は「漢民族の勝利を祝うお祭り」なのだ。なかなか多くの日本人にはこのあたりのことはわかりにくい。私も台湾新聞で勉強する必要に迫られて、勉強するまではわかっていなかった。この日は「漢民族が満州族に勝利した日」なのだし「辛亥革命」とは「大陸の支配を満州族から漢民族に取り戻した革命」だった、というわけだ。そして辛亥革命で追われた満州族の王朝に日本が加わり、出来たのが、戦前の「満州国」ということになる。その王朝が、映画「ラスト・エンペラー」の王朝だった。

【孫文は日本に10年いた】
その辛亥革命を主導した、と言われる「孫文」は、革命の勝利の知らせを海外で聞いた。孫文の役割は漢民族側の顔として諸外国をまわり、辛亥革命の戦費を集めることだったからだ。日本にも都合10年いて、東京の大久保にあった、映画会社「日活」の創始者の一人、梅屋庄吉の屋敷で宋慶齢と結婚式を上げている。宋慶齢の妹である宋美齢は、同じ中国国民党で、孫文亡き後の中華民国の国家元首となった蒋介石の妻になったが、長寿で2003年まで米国ニューヨークに存命だった。梅屋庄吉は、今で言えば一兆円ほどの金額を孫文に革命のために渡したといわれている、孫文の一番の友人だった(この項、Wikipediaへのリンクだらけになってます。すみません)。今の時代ならば「え?ミサイル欲しい?うーん、じゃ、銀行口座教えて」てなもんなのだろうが。

宋慶齢の弾いたアップライトピアノは、ヤマハの国産ピアノ一号機で、現在、日比谷公園の中のレストラン「松本楼」に飾られている。松本楼は、戦前からある由緒あるレストランで、孫文たち辛亥革命の主要メンバーも、ここに集まって議論を交わした、という。その「松本楼」のオーナーのご一家の住宅は、東京・白金、美智子さまが通った聖心女子学園のほど近いところにある。そこには「三民主義」を掲げた孫文の遺品が残されている。余計な話をすると、その小坂家のすぐ目と鼻の先には、今も立派な大きな門のある広大な土地があるのだが、ここは服部ハウスと呼ばれたところだ。時計の精工舎の服部家の土地である。ここは戦後、GHQが接収し、明治34年に建てられたと言われる洋館では、東京裁判の判決書や、現在の日本国憲法が書かれるなどしたところだ。占領軍の事務をしたところだったのだ。

孫文は一年中諸外国を革命のための金策で回っていて、ときには出先で逮捕されたりするところを危うく逃れたり、など、多くの苦難を経験している。そのため、彼はほとんど中華料理は食べていないし、好きでもない、と言う。

孫文は辛亥革命の対外的な顔だったので、清の政府から日本国内でも狙われ、横浜中華街(なんと清の領事館 - 現在の公園のあるところ - のすぐ近く)、早稲田大学の目の前の早稲田鶴巻町にあった当時の右翼の巨魁と言われた頭山満の豪邸の中、などなど、逃げ回って居所を都度変えていた。

【その後の中華民国の話と日本の狭間で】
辛亥革命で清の王朝が満州に逃げ、大陸主要部には中華民国がいたのだが、この中華民国が日中戦争のさなか、しかも大陸中国の共産党にも攻められている最中に、更にロシアも加わってすったもんだしているときに分裂した。現在の中華民国の流れを汲む、蒋介石派(重慶)と、汪兆銘派(南京)である。現在の台湾を実質支配していると言われている中華民国政府は、この蒋介石の流れの政府だ。汪兆銘は孫文の側近で、孫文の遺言を筆記したインテリだったが、孫文の遺言を受けて日本政府とつながろうとしていた。しかし、1944年に名古屋大学の医学部病院で亡くなっている。

横浜の鶴見に総持寺という大きな曹洞宗のお寺があるが、ここの大きな駐車場の片隅にある列車事故の慰霊碑の裏の森の中にひっそりと、黒い大きな石碑が立っていて、そこには汪兆銘の名前がきざまれている。辛亥革命に義勇軍として参加して落命した日本人への感謝の碑だ。とは言うものの、汪兆銘は現在の中華民国からしても、大陸中国の政府からしても「裏切り者」なので、どちらでもひどい扱いを受けていて、多くの日本人はあまり知らないことが多いが、当時の大陸中国では一番の(軍国日本ではあったけれども)知日派の大物、ということになるだろう。

【「雙十節」に思う「日本」と「台湾」】
他にも、取材中に様々なエピソードを調べていて、とてもここでは書ききれないのだが、日本と台湾、というと、どうしても「B級グルメ」とかの、お気楽系の話になってしまうことが多いので、今回は「雙十節」をきっかけに、ちょとだけ深堀してみた。日本と台湾と大陸。昔から深い繋がりがあるのだ。

(写真は台湾の台中にある、中華民国が大陸から敗走して臨時の首都を作った「中興新村」の議事堂。現在は使われていない)

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