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「歴史」と「歴史小説」の間に。

【歴史家から評価されない「坂本龍馬」】
加来耕三さんのNHKのYoutubeは面白く拝見していたが、坂本龍馬のあたりの話は特に面白かったね。実際、歴史をちゃんと見る、という歴史家は坂本龍馬を「歴史ではなにもできていない人」と見ているのが当たり前なんだね。

【高度経済成長期と大衆エンターテインメント小説】
日本の高度経済成長期には、多くの都市生活者が「大企業のサラリーマン」だったわけで、そういう人のメンタリティにあわせて、歴史上に名前は出てはいるが、なんやらわからない(その方が小説という作り話の中でいかようにも解釈して面白く描ける)、つまり、大したことしていない「坂本龍馬」という人物を「こういう人だったら、話が面白くて売れるよね」という構想のもとに、司馬遼太郎という小説家がうーんと脚色して、大衆小説として書かれたのが「竜馬が行く」だったわけだね。あれは「作り話」なんだな。その時代の多くの人が「こうあってほしい」という理想像を描いたんだな。そこが多く人の心の琴線に触れたんだよね。

【坂本竜馬というキャラ】
未だに、日本の高度経済成長期を懐かしむ日本の老人勢は多いわけでね。そういう人が、その頃に入れ込んだ小説で作られたキャラである「坂本竜馬」を、史実に残る「坂本龍馬」と勘違いして「あんな人物がいたんだ」と、自らが生きたあの豊かな時代を懐かしんでいるんだね。今で言えば、坂本竜馬は、架空のキャラなので、ワンピースのルフィみたいなもんだよね。司馬遼太郎は大衆小説やエッセイは非常に上手い書き手ではあったけど、歴史家ではないからね。上手くあの当時の大衆を「のせた」、ハーメルンの笛吹みたいなもんだよな。

【「小説の楽しみ」の解き明かし】
小説の愉しみということでは、あの大衆小説は当時、面白く、高度経済成長期サラリーマンのメンタリティに合ったエンターテインメントであって、良くできているが、史実じゃないわけでね。そういう意味では百田尚樹の「永遠の0」も似たようなものなんだね。現実は残酷でかつ複雑で、そしてつまらないものであり、後世に、その一面を切り取って、ワクワクするエンターテインメントとして「創作」する、という「歴史小説」のジャンルでは、多くのファンを獲得したもん勝ち、というところがあるのは、売文ビジネスとしては当たり前なわけでね。これはエンターテインメントとしては成功した部類で、こういう面って、ドラマにもあるよね。司馬遼太郎も百田尚樹も放送作家から大衆小説家への転身組なのは、だから偶然じゃないわけです。「どこを切り取って、どう見せるか」が重要なビジネス、っていうことだね。純文学であれば「何を表現するか」が重要なんだけれども。

【なぜ「ウソ臭い」か】
そういう大衆小説家=売文ビジネスマンは、一時のエンターテインメントは提供できるが、どこかウソ臭い「匂い」があるのは、どこかに「現実をねじ曲げてビジネスにしている」という「後ろ暗さ」があるからだろうね。

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