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五輪と貧困と、ときどき牛乳。

夢はお腹を満たしてくれるか

毎年、夏休みになると感じる違和感。
学校や部活で会う、日に焼けた友人達。
口々に交わされる、夏の旅行のお土産話。

微かな違和感だった。高校までは、部活の存在が大きくて気がつかなかった。
大学生になり、自由な時間が増え、サークルの友人と旅行をするようになり、その正体に気がついた。
僕は生まれてこの方、「家族旅行」というものをしたことがない。
あまり人には言ってこなかったが、僕は、貧困家庭に生まれた。

自分の家が普通と違うことに初めて気づいたのは、小学校5年生のころ。
年に数回のご馳走として、家族で外食に行っていた、サイゼリヤと幸楽苑。
これを、「高級料理店」と教わって友達に自慢した僕は、クラスの笑い者になった。
小学校の頃から深夜に起きて、母の牛乳配達の仕事を手伝っていた僕は、
それが普通と違うことだと、気が付いてしまったのだ。
「貧乏」であることが、コンプレックスになった。

思えばあの瞬間が、その後長らく僕を縛り付ける「焦燥感」の始まりだったのかもしれない。

焦燥感は、自分の理想と現実のギャップから生まれていた。
自分の持つ「可能性」を馬鹿正直に信じていた幼い僕は、この閉塞感溢れる人生をひっくり返すほどの、
スケールの大きな夢を持たなくてはいけないように思えた。
僕の夢は、当時の僕に思いつく限り壮大な、宇宙の研究者になった。
そして、その夢の原動力は、自分の人生に対する焦燥感であった。

中学校に進学した僕は、進路希望調査で大きく戸惑った。
「中卒で働く」という選択肢を真剣に悩む人はほとんどいなかった。
当時は、公立高校無償化前で、公立高校への進学すらも危うかった。
葛藤の末、特待生制度を活用して私立高校へ進学した。

さすがに、大学への進学は夢のまた夢だと諦めていた。
私立高校の友人で受験をする人は皆、塾に通っていた。
大学進学にはお金がかかると聞いていた。
「成人したら家に仕送りをする」という家のルールもあった。

今振り返れば、大学進学を諦めなくても良かったのだが、知識が無く、情報リテラシーも無かった僕は、
大学受験を悩む以前に、選択肢に入れていなかったのだ。
進路を考えれば考えるほど、「宇宙の研究者」という夢は、不可能であるように思えてきた。

転機は2011年3月11日。東日本大震災で訪れた。
当時、僕は高校1年生だった。
千葉県の埋立地にある僕の実家は、液状化で大規模半壊した。
修理費分の保険が下りた。
両親は、家の修理をローンで返済することを決めてくれた。
一時的に入ったお金を、僕の受験費に当ててくれた。

父から言われた言葉を今でも忘れない。
「教育こそが最大の投資だ。夢に挑戦してくれ。」
病気で職を失い、右も左もわからず起業し、自営業で苦労し続けた両親にとって、僕の夢である「宇宙の研究者」は家族の希望だった。

勉強習慣の全くついていなかった僕は、何もわからずに受験勉強を始めた。
塾に通えば大学に行けると思っていた。

途中、大好きだった祖母が癌で入院した。
「合格したら、お見舞いに行くからね」
そう約束した。

高校3年生の12月、センター試験前の最終模試の日に、祖母は亡くなった。
携帯の電源を切っていて全く気付かなかった、大量の通知と着信履歴。
約束は果たせず、死に目にも会えなかった。
後悔を引きずり、失意のまま受けた受験は、全て不合格だった。

借金をしてまで臨んだ大学受験は大失敗し、大好きな家族も大切にできず、僕は部屋に引きこもった。

「もう、高卒で働こう。」そう思った。

でも、心に大きな引っ掛かりを覚えた。
ここで家業を継いで、僕は幸せを勝ち取れるのだろうか。
一生借金に追われ、同じ様な日々を送るだけではないか。

「まだ、諦めたく無い。」
そう思った。

両親に土下座をして、東日本大震災の残った保険金で浪人をした。

「大学生になること」への渇望も、そこから広がる未来への期待も、人並外れて高かった。
大学へ進学すれば、宇宙の研究者になれて、借金まみれの自分の人生はひっくり返ると思った。

トップレベルの大学を目指し、死に物狂いで勉強した。

しかし、第一志望には落ちてしまった。

僕は焦った。
こんなはずじゃなかった。
小学校のころから拗らせまくっていた自尊心と、自分の現状。
そして、僕の焦燥感を掻き立て続ける「経済格差」という社会の分断。

この分断を乗り越えるには、何かとんでもないことをしなければ。

第二志望の千葉大学理学部物理学科に無事合格し、念願の大学生になれた僕は、
進学後、自分の人生をひっくり返す「何かとんでもないこと」を求め、必死に探し回った。

ある日、自分のアイデンティティになっていた宇宙と、2014年当時、招致が成功したばかりだった東京オリンピックを掛け合わせたイベントを見つけ、参加した。
JAXA主催の「オリンピック×宇宙」のイベントだった。
オリンピックには、これから始まる未知の世界という「何かとんでもない感じ」が詰まっているように思えた。

ーこの世界に飛び込めば、たくさんの経験ができて、自分も有名になって、大きなことができて、自分の人生を挽回できるんじゃないかー
僕は焦燥感に駆られ、ひたすらに利己的な理由で、オリンピックという領域にのめり込んでいった。

デカすぎるオリンピックへの挫折

オリンピックの領域では、最初の2年は何一つうまくいかなかった。
友人に声をかけ、学生団体を立ち上げたけれど、「何ができるか」が全く思いつかなかったのだ。

2014年の8月に団体を立ち上げてから2015年4月まで、会議を重ねるだけでほとんど何もできなかった。
どうしようもないから、まずはゴミ拾いを始めた。
汚い日本よりは、綺麗な日本を見せよう。
これくらいしか、僕には思いつくことができなかった。

どうにかしなくてはと、もがく。それでもうまくいかない。
夢にまでみた大学生活は、刻一刻と過ぎていく。

ゴミ拾い以外にも、オリンピックから連想される様々な企画を試した。

日本語学校に連絡して国際交流イベントを開催したり、
大学のサークルと一緒にスポーツイベントを開催したり。

振り返ると、支離滅裂な取り組みだったと思う。
活動に、一貫した理念も計画性も無かった。

メンバーも離れていった。たくさんの言葉に傷つけられた。
「メンバーの時間を無駄にしているだけ」
「お前にリーダーの能力は無い」
「もうこの団体はたたんだ方が良い。」
「オリンピックなんて、どうせ一過性だし、他のことに時間を使おうよ」

周囲の大人たちからの風当たりも強かった。
見ず知らずの人から突然届く、オリンピック批判のコメント。
家業が大変なんだから、家の仕事をもっと手伝ってやれと、
僕がどれくらい手伝っているかも知らずに批判する人々。
半世紀も前の学生運動の歴史からくる、「学生団体」そのものへの社会的な疑心暗鬼。

そんな絶望の中、とにかく情報を求めて、オリンピックと名のつくイベントに手当たり次第参加していった。

ある日、ボランティア関連のイベントに参加した。
そのイベントのテーマ一覧の中に、「オリンピックボランティア」があったからだ。
そのイベントの参加者から、「学生ボランティアフォーラム」という他のイベントを紹介された。

僕は何もわからないままに、学生ボランティアフォーラムの事務局にメールをした。

何でも良かった。
何でも良いから、この現状をぶち壊してくれ。

勢いのままに、学生ボランティアフォーラムの企画側になってしまった。
ボランティアなんて、ゴミ拾いしてる人くらいのイメージしかなかった僕が、全国の学生ボランティアに向けてイベントを作ることになってしまったのだ。

全国から集まる数百名の学生ボランティアに届ける、2泊3日の合宿研修プログラム。
このイベントのために僕は、日本中から集まるボランティア推進の第一人者の先生方や、学生ボランティアの仲間たちと激しい議論を交わしながら、半年間かけて、ひとつのワークショップを作った。
僕はもちろん、オリンピック・パラリンピックをテーマにしたワークショップを提案した。

企画を進める中で、様々な大学の先生方から、徹底的なオリンピック批判と、それに向けた取り組みの曖昧さに対する批判を突きつけられた。
「自己満足」「動員へ加担している」「不幸になる人もいる」「ボランティアとは何か、わかっているのか」
こうした批判に向き合い、必死に自分なりの主張をつくった。

「確かに、この大会は沢山のお金がかかる、関わらなくてもいい人が沢山巻き込まれる。だからこそ、絶対に無駄にしたくない。誰かを不幸にするイベントじゃなくて、幸せにするために、僕にできることをしたいんだ。」
そう心に決めて、ワークショップを作った。

オリンピックボランティアに、開催期間中にただ「参加する」種類のボランティアだけでなく、
その機会を有効活用するために「企画する」種類のボランティアを加えたかった。
オリンピックの開催期間に、日本中でいろんな取り組みが自発的に起こっていく。
そんなムーブメントを作りたかった。

迎えたイベント最終日。
「よく頑張ったな」という言葉を厳しかった先生からかけられ、抱きしめられ、涙がポロポロとこぼれてきた。

ボランティアの世界で僕は、自分の自尊心を徹底的に、愛情を持ってぶち壊されたのだ。
僕はちっぽけな人間だとようやく気が付けた。
でも、目の前の人と向き合い、小さくても一歩を踏み出せる人間だと思えた。

ぎこちないながらも、自分や他者と向き合う術を身につけることができた。

ボランティアを通じ自尊心を乗り越えることができたものの、肝心の活動内容は、まだ定まらないままだった。

次に僕を救ってくれたのは、意外にも、団体設立当初はほとんど興味が無かったパラリンピックだった。
そこには、「障害の有無」という社会の分断に取り組む人々がいた。
彼らは、パラリンピックという機会を活用し、障がい者がスポーツを普通に楽しめる環境や、スポーツを通して障がい者と健常者が普通に友達になれる機会をつくるため、パラスポーツの体験イベントなどを各地で開催していた。

「2020年」という舞台を活用して、「分断」を乗り越えようとしているのは、僕だけでは無かった。

パラスポーツという業界の、「これから始まる感じ」にワクワクし、その業界に入ってみたいと思った。

「パラリンピックを支えた」というより、「パラリンピックから活躍の機会をいただいた」と言うべきだと思う。

僕たちにできることを一生懸命考え、だんだんその世界が好きになっていった。
支え合い、一緒に歩むかのように、パラリンピック関連行事の規模拡大と共に、その後の糧となるたくさんの貴重な経験を積むことができた。

パラリンピックと出会う前は、何度も解散を考えていた。
たった一人で活動しているときもあった。
自信なんて、とっくの昔に折れていた。
それでも、必要としてくれる人が現れたのだ。

丁寧に目の前の人と向き合うことを続けていく中、不思議なことが起きた。
あれだけ僕を批判していた仲間たちが、一人、また一人と戻ってきたのだ。
お互いに未熟だった。だからこそ、成長した姿で、わかりあい、また一緒に活動ができるようになった。

パラスポーツの支援を軸にしながらも、復興五輪やオリンピック・パラリンピック教育、ダイバーシティなど、様々なのテーマの企画を創出した。
いずれも、オリンピック・パラリンピックへ関わる幅を広げることにつながっていた。

オリンピック・パラリンピック公式プログラムである「東京2020参画プログラム」を独自に企画し、申請する権利もいただくことになった。
東京2020大会とつながっていることを示す公式マークを使用することができるようになった。
日本財団や東京大学といった公益機関・学校機関などと名を連ねることができた。
これは、学生の組織としては唯一僕たちだけに認められた権利だった。

たくさん失敗もしたけれど、それでも、どんどんどんどん、活動が広がっていった。

そして、今度は当てもない焦燥感からではなく、人生をかけて研究したいと思える軸を見つけた。
以前持っていた「ボランティア」のイメージと実態のギャップに気がつき、
もっと日本のボランティア文化を豊かにしていきたいと思った。
そのための研究と、研究を土台にした実践に取り組みたい。
大学4年生で宇宙物理学の研究に取り組んだ後、文転し、社会学の大学院へ進学した。

社会の分断を打ち破るために

大学院に進学した僕は、いくつものゼミで「格差社会」について議論した。

僕たちの人生は、生まれた瞬間から統計的にある程度決定づけられていて、
陸上トラックを走り、親から子へ、バトンを渡しているようなものだということを知った。

このままでは、貧困の再生産構造に組み込まれてしまうという危機感。
少しでも早く、その構造から脱出しなければという切迫感。
これこそが、僕が幼い頃から感じ続けていた焦燥感の正体だった。

この、個人だけでは克服することが難しい格差が、社会の「分断」だと僕は思った。

僕はその打開策を、「夢」に求めてきた。
自分の現状に止まらず、その枠を越えようとする意志を持つこと。

他にやり方はあったかもしれないが、不器用な僕には、それが唯一の道に思えた。
夢を描き続けることは大変だけれども、立ちはだかる困難と向き合い続けることで、成長し、格差を超える力を手にすることができる。
僕たちにはやはり、「夢」が必要なのだ。

大学院での研究の側、新たなプロジェクトの検討が始まった。

夢をゼロから生み出し、ひとりで信じ続けることはとても難しい。
でも、多くの人と、同じ夢を共有し、共に目指すことができれば、
いくつもの「分断」を超えられるかもしれない。

では、どのような「夢」を描けば良いか。

まず思いついた1つの答えが、僕の人生を大きく拓いてくれたオリンピック・パラリンピックだった。

注目したのは、連なるこの大会の開催を、最初に世界へ伝える役割を担う「聖火リレー」。

オリンピック聖火リレーは昔、世界を廻っていた。
しかし、様々な負の歴史と共に、2008年に世界の聖火リレーは失われ、今では開催国のみを走ることとなっている。
聖火の歴史を追跡すると、ナチスの呪縛との闘いや、北京オリンピックでの少数民族の問題をはじめ、「聖火」と「平和」の間に生じる、様々な歴史的な葛藤の存在を知る。

今、「平和の象徴」である聖火は、「分断」の問題によって世界を廻ることはできない。
でも、もし炎を世界に巡らせることができたら。その挑戦自体が分断を乗り越えることを象徴し、多くの人を魅了する夢にもなるのではないか。

僕の下にあったもう1つの答えが、「宇宙」だった。
幼少期から、無限に広がる宇宙は、ただそれだけで夢の象徴だったからだ。
宇宙が、夢を追い求める僕の人生の原点だった。

「宇宙からは国境線は見えなかった」
これは、宇宙飛行士の毛利衛さんが、帰還直後に言った言葉だ。

炎を持って世界を走る代わりに、国境線の無い宇宙へ炎を連れていったらどうだろうか。

無限に広がる宇宙の中。
どうしようもないくらいに壮大な地球の前に、
今にも消えそうな炎が、それでもなお、確かに灯っている。
そんな映像を、激動の2020年を振り返りながら、世界中の人々と見ることで、バラバラになった世界が、もう一度ひとつになるのではないか。

「共に生きること」を、理屈だけでなく感性の部分でも「良い」と思えるようになる。
そんなアーティスティックなプロジェクトを、これからの未来を担う若者が取り組むことに、分断を打ち破る可能性を感じた。

学生の手で、宇宙を撮影できる数少ない打ち上げ技法である「スペースバルーン」。
到達高度は上空30kmの「成層圏」。
宇宙の高度には到達しないが、宇宙と地球がせめぎ合う境界領域から、
国際宇宙ステーションからみる宇宙と遜色ない映像を撮影できる。

スペースバルーンを安全に打ち上げるには、場所と時期が重要だ。
その打ち上げが何度も行われ、国内でも有数の打ち上げに適したエリアとして知られる、沖縄県宮古島市。
その気象条件が最も安定する5月上旬に、偶然、東京オリンピックの聖火リレーが宮古島を通る。
この時期に合わせて、炎を宇宙へ向けて打ち上げよう。

壮大な夢の実現へ、一歩踏み出した。

パンデミックの中、だからこそ

ー絶望の中だからこそ、夢を描くことを諦めないー
その「夢への強い執念」こそが、「社会の分断」を乗り越える、僕なりの解答だ。
パンデミックという絶望的な社会環境の中でも、世界の若者はつながることを諦めず、共に大きな夢を目指したという歴史は、未来の若者へ、夢への憧れを届けていくだろう。

だから僕は、炎を宇宙へ向けて打ち上げる。

この夢は、いまや僕だけではなく、多くの若者の夢になった。

僕たちは、目の前のひとつひとつの小さな夢を道標に、将来の夢を描いていく。
しかし現在、コロナウイルスであらゆる行事の中止によって、その小さな夢が奪われている。
例え延期だとしてもそれは同じだ。
限られた”今”に、その時・その仲間とともに想いをぶつける僕らにとって、
夢の延期はそんなに簡単じゃない。

コロナ下の若者は、未曾有の「夢不足」の問題を抱えているのだ。

思い描いていた青春を、送ることができなくなった今、
新たな夢を描き、走り出すために。実現したい世界に近づくために。
たくさんの物語を抱えた若者が、ひとり、またひとりと、このプロジェクトに集まり、今では国内外の100名以上の若者と共に、プロジェクトの成功に向け取り組んでいる。

今だからこそ、未だかつて無い規模で、若者は同じ夢を共有できるのかもしれない。

例えオリンピックが無くなったとしても、僕たちは僕たちの小さな炎を打ち上げる決心でいます。
僕の「夢」に共感し共に追いかけてくれた仲間達、ご支援いただいた方々、そして、この文章をここまで読んでくれたあなたと、この炎が打ち上がった瞬間の感動を分かち合いたいから。

貧困家庭に生まれた僕は、ずっと欲しかった「日常」を求めて大きな夢を描き、走り続けた。
絶望的な状況もあった。今でも、生きていくための牛乳配達と、夢に没頭する時間を行き来する日々だ。
だからこそ、「絶望の中での”夢”の価値」を知っている。

夢とは、生きる希望なのだ。

そして、社会の分断は、他者と夢を共有し、仲間となることで超えて行ける。

僕の夢への旅路は、そんな仲間を手にする冒険だ。

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