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noteを100日連続更新して思う「note以外の場所」の必要性

『毎日note365』101日目。
昨日、連続更新100日を達成しました!わーい!

つぶやき機能に頼りまくりながらも辿り着いた「連続100日」。

今まで何度もnote連続更新にチャレンジしてはすぐに挫折していたので、100日続いていることが純粋に嬉しいです。

今日は、毎日「書く」ことを続けてみて感じていることを書こうと思います。

私がnoteを100日書き続けて感じているのは、「note以外の場所」の必要性でした。


ここは「インターネット」

noteを更新するということは、インターネットを介して全世界に公開するということ。

先日、「SNS発信を難しく感じる」という話を書いたのですが、発信については、「誰も見ていない」も「誰が見ているかわからない」も、どっちもその通りだと思います。

「発信していないことは”ない”のと一緒」だと思っているし、受けてもいない批判を恐れて発信しないのはもったいないと思うけど、たとえ反応がなかったとしても、何気ない発信から自分のことをジャッジされることだってあると思うし、それが自分の想定していない方向(プラス、マイナス両方)に影響してしまう可能性だってあると思っています。

田舎に住んでるから、余計にそう思うのかもしれないけど。

たとえ本名をインターネット上に出していなくとも、「これってあの人だよね」って、結構すぐにわかっちゃうんですよね。(だから今も身バレしている前提で書いてる。)

インターネットを使って発信するときは、誰かを傷つけてしまう表現になっていないかとても気を使うけれど、それでも、リアルな世界では自分の想像力に限界があると痛感することが多いから、最近は「インターネットでは何も言わない方がいいんじゃないか」と思うことの方が多いです。

萎縮している、と表現するのが適切かもしれないです。

インターネットを前にして萎縮してしまう以上、noteに書けることは限られてくるし、それでは私が目的としている「自分アップデート」を実現するための手段としては、ちょっと弱いなというのが正直なところです。

ありのままを無加工で書き出せる「note以外の場所」が必要

そこで感じているのが、「note以外の場所」の必要性です。

noteに書いてインターネット上に公開する以上、言葉には(少なくともそのときできうる限りの)細心の注意を払っていたいし、もちろん「言わない方がいいかな」と思ったことは書かない選択をします。

noteは見られる場所だから、「編集された言葉」を残したい。
これが、noteに対する私の価値観です。

でも、私自身に必要なのは、「編集された言葉」だけじゃないんですよね。

noteを書けば書くほど、言語化できていない自分の価値観とか、今まで気づいていなかった自分の欠点や長所がわかってきて、自己理解を深めていけている実感があるのは嬉しいのだけど、その気づきを自分の言葉にするには、「無加工の言葉をただただ書き連ねる場所」が必要なんだと感じています。

今年は自分軸手帳を使っていて、手帳がその役割を担ってくれるかとも思ったのだけど、どうやらウィークリーページではちょっとスペースが足りなくて、「書きたいことが書ききれない現象」が起こりがち。

なので、ただただ書くためだけのノートを1冊、新しくお迎えしようかと考えているところです。

地に足つけて生きていきたい

「自分がどうありたいか」で言うと、「地に足つけて生きていきたい」んだと思います。

自分のことをもっともっと知りたいし、自分で自分の言葉を持ちたいし、自分で自分のことを決めていきたい。

流れに乗ることも好きだけど、それを続けていると、今の私はどうやら不安になってしまうらしい。たぶん、どこかふわふわしたまま流れに乗っているから、不安になるんだと思う。

だから地に足つけて生きていきたい。

noteを100日続けてみて、こんなことを考えています。

手帳も全然うまく使えていないけど、「思うがままに書き出せる場所」が欲しいので、まずはノートを1冊買おうと思います。

今やりたいことを満たしてみて、次にどうするか考えたい。

noteを書くという習慣を土台にしながら、自分アップデートを続けていきたいです。


ではまた明日。



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