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フィクション恐怖症?

  小説や漫画、映画やドラマにあまり手が伸びない。びっくりしたり、怖い思いをしたくないから。後味が悪い思いをしたくないから。

  そんな気持ちで娯楽と向き合ってきた。触れたものと言ったら音楽とテレビゲームくらい。ジャンルに関わらず、クリエイター達が生み出した作品に触れることは、決して多くない方だと思う。小説やドラマに夢中になったことはほぼないし、映画も1年で5本見たら多い方だと思う。昔の方が楽しめたというわけではない。作品に触れないのは今も昔も同じだから、そもそも比較しようがない。映画館やレンタルビデオ店に行かずとも、サブスクであれこれ手軽に見られる今の世の中でも、「見てみよう」という気になれない。ホラーはとても苦手だけれど、ジャンルに関わらず未知の作品にはまず、恐怖を覚える。1人の傍観者として、主人公の人生を見続けることが怖いのだ。

  分かりやすいのは学園もの。どれだけ明るい雰囲気で、どれだけ夢中になれるシナリオであっても、なかなか見ようとは思えない。思春期という多感な時期を生きる登場人物を、ただじっと見つめ続けなければならないからだ。そこにはきっと、理不尽な挫折、性格の悪いクラスメイト、思ってもないようなハプニングが山ほどあるのだろう。自分自身の人生をまともにに進められなかったからか、知りもしない人物の生き方を見守る余裕を持っていないのだ。それに加えて、経験した苦い思いだけは豊富に兼ね備えてしまっている。だから作品に登場する者たちが味わう悔しい思いは他人事のように思えないし、この次の展開でどんな恐ろしいことが起きてしまうんだと、常にそわそわしている。気が休まらない中でページをめくること、スクリーンやテレビと向き合い続けることは、尋常ではないほど辛い。
  作品に向かってなんてことを言うんだと怒られるかもしれないが、登場人物たちの周りで一切何も事象が発生せず、そのまま物語が終わってほしいと考えてしまう。物語なのだから、起承転結があって当たり前だ。だからドラマチックな仕上がりになったり、見る者や読む者をあっと言わせるのだろう。しかしそれを見て(あるいは読んで)も、途中で逃げ出したくてしまいたくて仕方なくなる。上手く言えないが、知りもしない赤の他人から愚痴を聞かされているようで不愉快だ。もともと相談を受けてもまともなアドバイスができないくらい、人間がなってない。だから空想上の人物であっても、それらを取り巻く事象を見ていられるような、正常な人間ではないのだ。

  序盤で書いたが、作品に全く触れないわけではなく、成り行きによっては接してみることもある。それは勧められたものを断れないということもあるが、そろそろこのリミッターの外れた感受性ともおさらばしたいと痛感しているからだ。これだけは言っておくと、楽しめるものなら作品を楽しんでみたい。ソワソワするのではなく、ハラハラドキドキしてみたい。そうやって向き合ってみるのだが、まぁヒットしないものだ。打率で言ったら1割もいかない。珍しく「向き合ってみよう」と意気込んでみても、始まったところで「あーダメだ」ともう諦めムードで消化試合だ。浴びている時の気分はどんなものかと言ったら、同じフレーズを連呼しているわけでもないのに、くどいCMを何度も何度も受け続けてるようなものに近い。それもただ、見ていてうざったいだけではない。登場人物に不都合があると、どうしてこの人はこんな目に遭わなきゃいけないんだと、悲しみと怒りに襲われる。SNS上などで何かしらにすぐ難癖をつけて被害者ぶる人間を見ると吐き気を催すが、ツイートをしていないだけで、自分自身も似たようなものだなと気づいてしまった時は、ただただ虚しかった。もういい、もういいってと作品を振り払おうにも、それが世間一般では支持されているのだから仕方ない。それなら支持されているものを理解できない自分自身のセンスも仕方ないで済めばいいのだが、そうはいかないのが面倒なところだ。なぜなら、一生こんな受け手として作品を避け続けなければならないのだから。少しでも「見れない」なんて口にしたら、それは「逆張り」という冷たい視線を向けられることになるから。

  突然個人的な話になるが、人付き合いはとても苦手だ。多くの人と交流を深めるなんてできない。だからだろうか。比較的ではあるが、落ち着いて向き合える作品は登場人物が少ない場合が多い。途中まで珍しく楽しめていても、新たな登場人物が出てきた途端に再び動揺し始め、悪い予感が的中し、気分を害す展開になることがよくある。みんなでワイワイ何かをするよりも、気の知れた仲間とこじんまり過ごす方がずっと良い。こんな閉鎖的な心で人と向き合ってしまうのだから、ある程度成長してからは、友人なんてできていない。子供の頃から仲良くしてくれている数少ない親友には、本当に頭が上がらない。そんな親友達と集まった時に、突然見知らぬ人物が入ってきたりしたら、きっと落ち着かなくてたまらなくなる。もはや作品でも現実でも、新たな展開を拒むようになってしまった。

  フィクション恐怖症とでも呼んで良いほど、あれこれ避けてきてしまった。同じような思いをする人がいるかなど考えたこともなかったが、Twitterで話題になって知った言葉で、「HSP」というものがある。端的に言えば過度に神経質な人間が存在するらしい。テレビ番組などでも取り上げられ、世間にも少し浸透した。世の中には似たような人間もいるんだなとも少し安堵したが、多く見受けられた反応は「世の中生きづらそう。」という声だった。痛いところを突かれたと同時に、自分自身が常にもやもやしていたのはこれだなとも思った。四六時中、作品を避けることに意識を向ける。こんなこと、正常な人ならばやっていない。浪費という言葉以外見当たらないほど、エネルギーを無駄に使ってしまっている。
それはまさに、生きづらいことこの上ない。

  耳で聴き、ただ気持ちを委ねられる音楽、多少胃がきりきりするシナリオでも、自分自身の手で操作して介入できるテレビゲーム。楽しめる娯楽を分かっていることが何よりの救いだ。新しい趣味を開拓できないこと、作品を見て人並みに感情を昂らせられないことは非常に残念だ。だからこそ、胸を張って「好き」と言えるものはずっと向き合っていたい。片手で数えられるほどではあるが、好きな漫画や映画もある。何事にも向き不向きがあるのだから、そんな生きづらさと、奇跡的に出会えた「好き」と付き合いながら、これからも生きていこうと思う。


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