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自然体

 「そのまま」「ありのまま」「自然体」というものほど、「そのまま」「ありのまま」「自然体」という理想を固形として頭に意識してしまうことで、かえって不自然な動きをしてしまう。

そういうことすら思っていない、ただただ無識別な状態、リラックスして、脳内をたゆたうあらゆる思考や感情に判断を設けず、先も過去もない無我の状態を維持していれば、それは一つの自然体を保ててる状態であろう。

しかし、こうした定義のもと訪れる「ありのまま、自然体」は、責任すらも存在せず、他者との摩擦間としては破綻してしまう。どうしてもある程度の TPO が生じるからこそ、コミュニケーションにおける "自然体" は難しいものなのだ。

理想に対するそれなりの責任。裏を返せば、責任にまみれた世界で生きているからこそ、理想がよりいっそう理想として燦然と輝く。我々は、呪縛から解放されるかのように「ありのまま、自然体」を一縷の予防線として多用し、言葉にすることで状態が叶わずともひと時の安寧を得る。

そこに介在する無責任感が「奔放・エキセントリック」のような形で好意的に捉えられる人たちは自然体の恩恵を上手く得ているのだろうと思うが、それ以外の大抵の人たちは、自然体の使い方を誤ると、ただの無責任かつ不誠実な印象を人に与えてしまう。

 常識的な姿勢の人が、能動的にありのままを演じるものほど白々しいものはない。だからといって、自分の言動になんのジャッジメントも検閲もかけず思いのまま生活するのもリスクが大きい。「ありのまま、自然体」は個人的精神担保ではなく、あくまで他者目線で判断・構築されることが大きいのかも知れない。

今日はこんなところで。

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