見出し画像

親切

 人生のうち、どれほど親切に時間を費やせているのだろう。

家族や友達、日常で袖振り合う人たちに対する些細な心遣いなど、自分が今生きている中で、向き合う人たちを喜ばせることに対しての気持ちは捨てたくないな、と常日頃思う。

余裕がなくなればなくなるほど、どうしても自我の方に目が行きがちで、大我を見失いがち。自己中心的な気持ちが強ければ強いほど、求めるメリットに反比例するかのように気持ちがスッキリせず、より深い沼にはまり込んでいく感覚を覚える。

何をもってして「親切」というかも案外その時で変わったりするも、言えるのは自分を決して犠牲にすることなく、相手の気持ちを慮り、想像したうえでその場で思い浮かぶ気遣いをする、それは順番を譲ってあげるだとか、車や自転車なら全体の事故防止のためにまず自分が安全運転に徹するだとか。はたまたコンビニで募金箱に小銭を入れるなど。そうした間接的な親切というくくりでも良い。

先回りして誰かが喜びそうなことをしてみる。その気持ちを持つだけでも自分の余裕領域は拡張されたりするものだ。

 そうなのだ。大概において余裕をもてなかったり焦りに囚われてしまうのは、自分という存在だけの世界をベースにいろんなことを想像し続けるからなのだ。他者との距離感、繋がりなどを少しでも頭の片隅に携え、誰かが喜ぶさまを思い浮かべるだけでも、心の置き場所が変わり、生きる意義が違ってくる。

自分はこうして人に親切にできるくらい余裕はあるのだ、という余裕が、多少打算的にもなるが自分を安心させてくれたりする。

気遣いがすぎて人の顔色を伺うようになるのであれば、逆に自分中心に戻し、自分だけの了見に縛られ周りが見えなくなるようであれば、他者に思いを馳せる。その利己・利他の手綱はつかみ続けていたい。

 急ぐ時ほどのんびり構える。不安なときほど誠実に、人が喜ぶさまを想像する。エンタメも含め、何となく人生全般に対するライフハックとして、親切はわりと重要なものとなり得るのではないだろうか。

今日はこんなところで。

貴重な時間の中 読んでくれてありがとうございます。 「スキ(いいね)」は非会員ユーザーさんもできるので、 押してくれるとすごく励みになります。 そしてぜひ大阪に来た際は COPY HOUSE へ!🏡