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見返りありきの気遣い

 たまに「ここまで気を遣ったのに、結局なんの効力もなかったな」と感じる時がある。

具体的な例を挙げると、取引の際など、本体よりも窓口の人とやりとりする場合が多く、基本伝言ゲームとなるため、(無用なトラブルを避ける意味も含め)板挟みの翻訳作業も大変だろうな、という意味で窓口の人を労う時などがあるのだが、思いのほかその思いは伝わっていなかったりする。

そんなときにふと虚しくなったりするのだが、これは明らかに見返りを期待している自分自身の心境からくるもの。同時に無意識に「人間とはこういうものだ」と考えてしまう傲慢さもあるのだろう。

相手の気持ちを想像し先読みするのは、思いやりの基本仕様として大切なことではあるが、考えすぎると結局は自分の満足感や予防線のようなものが勝ってしまい、何らかの打算に帰結するという面白い現象が起こる。

結局は「傷つきたくない自分」のためという気持ちも多分にあるのだろう。本来気を遣うことは無償で良いはずなのだが、そうはいかないのが人間心理。

受け取り方は人それぞれ。伝わるか伝わらないかを相手のせいにするために「気を遣って」いるのなら、そのような気遣いは避けた方が良い。


 あまり深く考えずにシンプルに物を伝える方が、かえってストレスフリーな自分自身を保てるし、変な依存も生まれない。そのあたりのバランスはもっと考えていきたいなと思っている。

今日はこんなところで。


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