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人の手によって変わりゆく地球を、どう書くか――北欧の“エコ文学”

 私事になりますが、この秋、スウェーデンのルンド大学で“現代エコ文学”のオンラインコースを受講しています。こちらの大学で勉強するには、みんなでいっせいに入学して卒業するという形である必要がなく(そういうプログラムもありますが)、コースごとに登録するのが簡単で、パートタイムのコースやオンラインコースも豊富なので、働きながら勉強している人がたくさんいます。今秋はみなさまご承知の事情により、オンライン開講のコースがぐんと増えており、手放しで喜べることでないとはいえ、勤労パートタイム学生としてはありがたい状況です。
 私はスウェーデン語の翻訳者ですが、長年の環境オタクでもあるので、エコ文学というワードを見逃すことができませんでした。この分野はいま人気があるのか、あちこちの大学で似たようなコースが開かれています。気候危機や環境問題への関心の高まりを、文学がどうすくいあげていくかが問われているのかもしれません。
 まず、“エコ文学(ekolitteratur)”というのは、このコースの名称を決めるにあたって担当の先生が考えた言葉とのことで、けっして一般的な用語ではありません。自然環境と人間との関係をテーマにした文学、という意味で設定したそうです。その一方で、環境と人間との関係を中心に据えた文学研究“エコ批評(エコクリティシズム)”はすでに確立していて、今回のコースでもこれを中心に学んでいます。授業でとりあげる作品のジャンルはさまざまで、小説や詩にとどまらず、ノンフィクションや戯曲も課題に入っています。
 まだ消化しきれていないところがたくさんありますし、この記事は論文ではありません。むしろ、自分がなにを分かっていないかを整理するために書いたもの、という感じです。内容としては、「文学は環境問題をどう書いているのか」という問いに対し、興味深いと思った指摘のひとつを紹介し、関連する北欧の小説(日本語で読めるもの)を3作紹介しています。拙い内容とはいえ、読んでくださった方になんらかの新たな視点やきっかけを提供できれば幸いです。


「人新世(アントロポセン)」の到来による新たな課題

 人新世という言葉をご存じでしょうか。人類は地球の地質や生態系に重大な影響を及ぼしていて、その活動の痕跡は地球から消えずに残るものと考えられています。このため、最新の氷河期の終わり(約1万年前)から現代までを指す「完新世」に代わる新たな地質年代として、「人新世」という語が提唱されています。これまでは、地球の地質や生態系は太陽や風、水などの力で、長い時間をかけてゆっくり変わっていくものでしたが、いまは人類こそが地質学的な力と化しているわけです。(注1)
 このように表現すると、「人新世」は人類の強さを示す時代のように聞こえますが、実態は逆でしょう。人類はみずからの手で地球を変えた結果、これまでとは違う、過去の経験で測りきれない地球で生きていくことになり、逆にその無力が露呈すると思われます。その具体例が気候危機です。地球はもう、人類にとっての安定した「舞台背景」ではありえなくなってきています。
 この新たな時代を、文学はどんなふうに表現しているのでしょうか。そもそも文学にこれを表現する力はあるのでしょうか。

 インドの作家アミタヴ・ゴーシュ(注2)が、2016年に発表したエッセイ集『The Great Derangement: Climate Change and the Unthinkable(大いなる惑乱――気候変動と、考えの及ばないこと)』で、まさにこの問いを掘り下げています。彼はおもに気候変動の問題と小説というジャンルに注目し、気候変動や環境破壊をテーマにした小説は、どういうわけか自動的に「SF」「ファンタジー」に分類され、主流の「まじめな文学」ではないとされることが多い、としています。昔は違ったはずですが、現代は、科学と文学、自然と文化が、まるで相容れないもののようになっていて、「まじめな文学」は人間とその関係性を扱うものであり、科学を扱うSFは一段下のジャンルである、といった通念があるようです。これはむしろ、「まじめな文学」界にとっての損失であろう、とゴーシュは言います。
 SFやファンタジーなどに分類されることで、気候変動の問題はまるで、いまのふつうの日常とは関係のない、べつの時代、べつの次元のことのようにとらえられているのではないでしょうか。たしかに、変わってしまった地球というのはある意味、いまの人類にとって「ふつう」の枠を超えた、考えの及ばない状態といえるかもしれません。それでも気候変動はまぎれもなく、いま、この次元にある現実です。最近では、気候変動に関する小説がSci-fi(Science fiction, SF)ならぬ「Cli-fi」(Climate fiction)などと呼ばれたりしていますが、その大半は未来のディストピアを舞台にしたものです。が、未来がどうなるか、というのは気候変動というテーマの一側面でしかない、とゴーシュは主張します。気候変動はすでに起きていることなのだから、過去も、現在もあるはずだ、と。
 さらにゴーシュは、小説家として気候変動を書く際に難しい点として、西洋の近代以降の小説にある「本当らしさ」「整合性」の呪縛を挙げています。ゴーシュは自身がデリーで突然起きた竜巻に遭遇した経験を語り、それは現実にあったことだが、もし小説の中にそんな出来事がいきなり出てきたら、この作家はプロットをうまく立てられなかったんだろうと思ってしまう、と書いています。まさに「事実は小説より奇なり」。もちろん小説に奇妙なできごとはたくさん出てきますが、それは少なくとも小説世界の中で整合性が取れていなければならないわけです。そうなると、気候変動により予想不可能な、想像の及ばない自然現象が起きる現実を、小説として書くのはなかなか難しいということになります。
 このような状況にある現代の文学を、遠い未来の人類が読んだとしたら、差し迫った現実を文学が直視できていない惑乱の時代と評するだろう、とゴーシュは書いていて、『大いなる惑乱』のタイトルはそこから来ています。

 文学が人新世をどう書くかなど、議論してどうするのか、という向きもあるかもしれません。が、人の思考は、文学を含む文化、世の中に流布している物語の影響を受けます。地球が人間の力で変えられてしまっているにもかかわらず、自然環境が不変の背景である物語ばかりを摂取していたら、現実に起きている変化を消化しきれないのも無理はありません。
 実際、ゴーシュの指摘どおり、気候変動をはじめとする地球の変化についての物語の多くが、SFやファンタジー、ディストピア小説、災害映画、などの枠組みにとどまっていることと、気候危機を前にした人類がややぼんやりしていることのあいだには、深いつながりがあるのではないでしょうか。
 また、人間とその関係性を描く小説が文学的に高く評価され、自然環境がおもに「背景」「情景」として扱われてきた事実には、人間が自然の一部ではなく、自然よりも上の存在であるという価値観が表れています。そして、そういう価値観こそが、人類と地球をいまの状況に追いやっている、という考え方もできるでしょう。
 文学は「自然環境を守れ」という教訓を含むべきだ、という意味ではありません。ただ、自然環境と人間のいまの関係を、文学はきちんととらえることができているのか、目をそむけてはいないだろうか、という点が問われていると思うのです。
 次の項では、日本語で読める北欧の小説を3冊紹介し、それぞれこの問いかけにどんなふうに応えているかを考えてみたいと思います。

自然環境と人間の関係に焦点をあてた小説3作

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アストリッド・リンドグレーン『山賊のむすめローニャ』(大塚勇三訳、岩波書店)
 言わずと知れた、スウェーデンが誇る児童文学作家、アストリッド・リンドグレーンが1981年に発表した小説。森の中で暮らす山賊たちと、そのかしらの娘、ローニャ。両親や山賊たちに愛されて育ち、森でのびのび暮らしていたローニャは、ある日、敵対する山賊一味のかしらの息子、ビルクと出会います。反目しあっていたふたりのあいだに、しだいに友情が芽生え……というお話。40年ほど前の作品で、気候変動や環境破壊の問題を扱っているわけではありませんが、自然と人間の関係を描いた本として、スウェーデン人が思い浮かべる代表的な作品のひとつであるようなので、ぜひ紹介したいと思いました。
 1980年代のアストリッド・リンドグレーンは、動物福祉や自然環境保護の問題に熱心に取り組んでいました。1988年には家畜の福祉について定めた法律に“リンドグレーン法”のニックネームがついたほど(もっとも本人は、この法律は甘すぎる、と不満だったようですが)。リンドグレーンは、“エコ文学”の古典と言ってもいい、H・D・ソロー『ウォールデン 森の生活』を愛読していたそうで、『ローニャ』にはその影響も感じられます。
 自然環境と人間の関係をリンドグレーンがどう考えていたかは、森に現れたビルクを邪魔に思い、わたしの子ギツネたちをほっといて、わたしの森から出ていってよ、と言ったローニャに対するビルクの反論に、よく表れていると思います。

「きみの子ギツネだって! きみの森! 子ギツネたちは自分自身のものさ、わかるかい? それに、あの子らがすんでいるのは、キツネたちの森だ。その森はまた、オオカミたちのだし、そしてクマたちの、オオシカたちの、野馬たちの森だ。それに、ワシミミズクの、そしてノスリたちの、ヒメモリバトたちの、タカたちの、カッコウたちの森だ。それに、カタツムリたちの、クモたちの、そしてアリたちの森でもあるんだ。(中略)おまけに、これはぼくの森だ! そして、きみの森さ、山賊むすめ、そう、きみの森でもある! だけど、きみがこの森をじぶんひとりのものにしときたがるんなら、きみは、ぼくがはじめてきみを見たときにおもったより、ずっとばかだってことだよ。」

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エンミ・イタランタ『水の継承者ノリア』(末延弘子訳、西村書店)
 フィンランドの小説で、原書は2012年刊行です。舞台は、気候変動によりスカンジナビア半島のかなりの部分が水没し、資源が枯渇して戦争が起き、水が不足する中、少ない水を軍部が掌握して完全に管理している世界。そんな中で、主人公の少女ノリアは、父のような“茶人”となるべく修行を重ねています。皆伝が近づいてくると、父はノリアに、茶人が茶をたてる以外に担っている、もうひとつの重要な使命を教えます。それは、だれも知らない天然の泉を、秘密のうちに守り、継承していくことでした。けれど、もちろんそれは犯罪で……
 環境破壊により一変した未来の世界を舞台にした、Cli-fiの典型のような作品です。なによりもまず、水不足により荒廃した世界の中で、主人公が“茶人”である、という設定が秀逸ですね。東洋の茶の道に通じる、水と人間の関係に関する哲学的な考察も散りばめられていて、人間にとって水とはすなわち命であるのだという真実を、あらためて実感させられます。
 上に書いたとおり、アミタヴ・ゴーシュは未来にばかり目を向けるCli-fiに批判的で、この作品にも彼の批判は当てはまると思います。が、ちょっとおもしろいと思ったのは、この作品が、現在の気候変動や水不足の問題について読者が知っているという前提の上に成り立っている、という点です。気候が変わり、水が汚染されて足りなくなった理由を、この本の登場人物たちはよくわかっていませんし、作中でも詳しく説明されません。けれど、現代を生きる読者にはその理由がわかる。いま起きている気候変動や、世界各地の深刻な水不足や水質汚染について、読者は知っていて、その結果がこのディストピアなのだろうと想像がつくわけです。その知識と想像があってはじめて、作品の世界が完成する。ある意味「読者参加型」の読みを求める作品であり、小説そのものは未来を舞台にしていますが、読者は現在の状況に思いを馳せざるをえなくなります。説明不足だという批判もあるかもしれませんが、逆にそこがこの作品の長所であろうと思います。

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マヤ・ルンデ『蜜蜂』(池田真紀子訳、NHK出版)
 マヤ・ルンデはノルウェーの作家で、原書は2015年刊行。これもディストピア小説に分類される作品ですが、じつは舞台となっている時代・場所が、19世紀のイギリス、現代のアメリカ、そして未来の中国と3つあり、ディストピアを描いているのは未来の中国の部分だけです。未来の世界では、農作物の受粉をしてくれる蜜蜂が絶滅してしまい、人類も絶滅の危機に陥っています。ヨーロッパなどは相当まずい状況のようですが、管理社会化した中国では、人間が手作業で受粉を行うようになっており、人々は重労働を強いられていますがなんとか乗り切っているようです。
 この未来の世界の物語と、蜜蜂にかかわる人々という共通項があるとはいえ、一見なんの関係もなさそうな19世紀のイギリスと現代アメリカの物語が、並行して語られます。そして、最後のほうでこの三つの物語が見事につながるのです。詳しく明かすわけにはいきませんが、上で紹介した『山賊のむすめローニャ』のビルクの言葉のようなメッセージ性のある結末だと、私は感じました。
 現代アメリカの部分で、ちょっとびっくりするようなこと(ゴーシュの言う「考えの及ばないこと」に近いかもしれません)が起きるのですが、これは現実にあることなんですよね。理由は不明ながら、人類が環境に及ぼしている影響が大きく関与していることはまちがいなさそうですし、蜜蜂をはじめ、受粉に重要な役割を果たしている昆虫類が、環境破壊によって劇的に減っているのも事実です。

 本の読みかたのひとつとして、こんなふうに“環境”という視点をとりいれてみると、また新しいものが見えてきます。個人的にはこれからも探究していきたいテーマです。文学の世界はやはり果てしなく奥深いですね。


(注1)言葉だけだとイメージが湧きにくい方には、そのものずばり『Anthropocene(人新世)』というタイトルのドキュメンタリー映画をおすすめします。トレイラーだけでも見てみてください。映像がとても美しく、怖くもあります。https://youtu.be/ikMlCxzO-94

(注2)アミタヴ・ゴーシュの日本語訳は『ガラスの宮殿』(小沢自然・小野正嗣訳、新潮社)など数作ありますが、『The Great Derangement』の日本語訳は残念ながらまだ出ていないようです。

(文責:ヘレンハルメ美穂

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