見出し画像

『ゴリランとわたし』  とっても愛おしいゴリラのママの物語

5月の第2日曜日は母の日。
母の日にぴったりの児童文学を一冊紹介したいと思う。
その本は『ゴリランとわたし
作:フリーダ・ニルソン 訳:よこのなな 絵:ながしまひろみ

~主人公ヨンナは児童養護施設『ヨモギギク園』で育つ9歳の女の子。
ヨモギギク園の子どもたちはいつも園長のヤードに、布団干しや掃除、ジャガイモの皮むきなどに追い立てられている。
 時々子どもが欲しい大人がやってくると、子どもたちは品評会のごとく整列させられ、自分が選んでもらえないかとドキドキしながら待つ。

 ある日ヨモギギク園に子どもが欲しいという人・・・いやゴリラがやってきた。誰もが怖がって蜘蛛の子を散らすように逃げていくなか、ひとり逃げ遅れたのがヨンナだった。そのゴリラ、名前はゴリラン、はヨンナを気に入り、引き取ることに決める。ヨンナは食べられてしまうんじゃないかと思ってヒヤヒヤ。なんとか逃げられないかとすきをうかがう。

 一緒にでかければ周りの人が振り返るし、悲鳴をあげたりヒソヒソ噂話をしたりするし、最初は並んで歩くのもいやでたまらなかったヨンナだが、なんとか愛情を示そうとするゴリランにだんだんに心を開き、離れがたくなっていく。ふたりは頭を使い、ちょっとしたお芝居を打ってゴリランの営むリサイクルショップ(ガラクタをちょっときれいにして売りつけるイカサマな商売)を繁盛させる。

 ところがゴリランが住んでいる土地が欲しい町の理事会のトップがやってきて、土地を渡さなければヨンナを『ヨモギギク園』に戻すと脅し始める。さあ、この危機をふたりはどうやって切り抜けよう~

 この本の魅力はなんといっても不器用で愛情深いゴリランとおしゃまで頭の回る女の子ヨンナだ。ゴリランとヨンナは大の仲良しなのに、ゴリランを馬鹿にし見下そうとする人たちの前ではわざとゴリランがヨンナをどなりつけ、虐待をしているかのような言葉をかける。だがそれはふたりのお芝居で、周りの人々をからかって楽しんでいるのだ。

 どうしてこの本を読んで、こんなにも切なくてそれでいて笑えてくるのだろう。それは自分がかつてはヨンナと同じ、なんとか自分の人生を築くのに一生懸命な少女だったからで、今はゴリランのような不器用な母親だからかもしれない。かつての私はけがをしたら絆創膏を貼ってくれて抱きしめたり、なでなでしてくれるお母さんが大好きな少女で(いや実は私がヨードチンキがしみるのがいやで逃げ回るのを、母が鬼の形相でおっかけて来るというのが通常のルーチンだったのだが)、今はおしゃまどころか、世の中をどこか斜めに見ている娘と遊びにいきたくてたまらない母親だ。

 ゴリランとヨンナはとっても変わっているけれど、実は誰もが自分と重ね会わせることができる普遍的な親子なのである。どんな親だって自分を完璧だなんて思ってないだろうし、どこかで自分はドジで不器用で理想とはほど遠いとコンプレックスを抱えているのではないだろうか。

 ズボンがずり落ちていて、みんなが憧れるようなきれいなママどころか人々に恐れられるゴリラン(だってゴリラだもん)は自分がどんな風に見られるのかよく知っているし、もしかしたら自分と一緒にいることで大好きなヨンナが笑われるかもしれない。それでもヨンナと出かけて楽しく過ごしたい。そんなゴリランの気持ちは、読んでいると痛いほど伝わってくる。ひたすらヨンナが大好きで一緒にいたいのだ。

 ところでゴリランの名誉のために付け加えるが、彼女は不器用なだけで傍若無人ではない。実は本を何千冊も読んでいる読書家で、彼女の言葉や行動には実は鋭いウィットが潜んでいる。だからこそヨンナとたくらんで周りの人々を驚かせ、ガラクタを高く売りつけてお客をこけにすることができる。イカサマだけどちっともいやな感じではなくて、むしろ小気味よい。

 先日の母の日、私は娘と本屋さんへ行き、自分への「母の日のプレゼント」として『ゴリランとわたし』を買った。その後娘とふたりでカフェに行き、しばらくふたりでそれぞれ買った本を読んでいた。この本を読んで時々こみ上げてくる笑いをかみ殺しつつ、温かな想いに浸るというたまらなく贅沢な時間を過ごした。

『ゴリランとわたし』はぜひ親子で読んで、面白かったねと語り合ってほしい本だ。そうしたらママかパパが忙しくてついピリピリしてしまう時も、娘か息子がイライラしてついママにあたってしまう時も、ふっと気持ちがゆるんでお互いに笑い合えるかもしれない。そうしてピリピリママorパパもイライラ娘or息子も実はどんなに相手が大好きで一緒にいたいのかを改めて確認できるんじゃないだろうか。

文責 中村冬美

*このブログは、にほんブログ村の
海外文学」と「翻訳(英語以外)」に参加しています。*


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?