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【50代の大学生日記 第56話】2月も終活旅行(後編 韮山反射炉の巻)

 土肥温泉で一泊し、翌朝路線バスで修善寺へ向かいました。土肥の漁港街をひと回りしたバスは険しい山に入って行きます。伊豆の山々がこんなに険しいとは知りませんでした。山を下ると修善寺、三島からこのあたりまでは平地が広がっています。
 修善寺駅から伊豆箱根鉄道駿豆線(通称いずっぱこ)に乗り伊豆長岡駅で下車。

いずっぱこ

 今日の目的地へはこの駅から徒歩で向かいます。人も車もあまり通らない、両側に田畑が広がる道をとぼとぼと歩くこと約30分、ようやく到着です。以前は伊豆長岡駅からバスもあったようですが、コロナで休止になり、そのまま復活していないようです。電車と徒歩で訪問しようなんて人は珍しいのでしょうか?
 今日の目的地はここ。

そびえたつ巨塔?

 世界遺産(明治日本の産業革命遺産)韮山反射炉です。反射炉とは金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉で、この韮山反射炉は実際に稼働した反射炉として日本で唯一現存する炉です。
 反射炉は17世紀から18世紀に欧州で発達した、銑鉄(砂金や鉄鉱石から作った不純物まじりの鉄の塊)を溶かして良質の鉄を生産するための溶解炉で、内部の天井がドーム型になっており、石炭などを燃料として発生した熱を天井で反射させることにより一点に集中させ、千数百度の高温を実現することで、鉄のように融点の高い金属も溶かすことができます
 ちなみに、写真で煙突を囲っている鉄骨は耐震補強のため近年取り付けられたもので、建設当時はレンガの表面に漆喰(しっくい)が塗り込められていたので、白亜の塔のようであったようです。

韮山反射炉


反射炉の構造


 韮山反射炉は1857年(明治維新の9年前)に完成しました。当時は、1840年アヘン戦争に代表されるように、欧米列強アジア侵略を目論んでおり、日本でも1853年にペリーが来航し開国を迫るなど、海からの攻撃に対する防衛と軍事力の強化が求められていました。韮山の代官であった江川英龍(ひでたつ)蘭学に通じ、西洋砲術の導入や鉄製大砲の生産、西洋式築城技術を用いた台場(海岸に築いた砲台)の設置、海軍の創設、農民に剣術を教えて農兵組織を作るなど一連の海防政策を江戸幕府に進言していましたが、幕府の腰は重く、ペリーの黒船来航にビビッて、ようやく英龍を責任者として反射炉品川台場(現在のお台場の一部)の築造を決めたと言われています。
 英龍は反射炉の設置場所として、鉄鉱石を南部(今の岩手県)から、燃料の石炭を筑豊(今の福岡県)から船で運ぶ必要があることから、良港がある伊豆の下田に決めて、基礎工事を始めますが、下田にいるペリー艦隊の兵が興味津々でやってきて、「あんたら何を作ってまんねん? なんかやましいこと考えてるんとちゃうんかい?」と怪しむので(なんで大阪弁やねん)、急遽建設地を自宅の近所の韮山に変更したそうです。英龍は反射炉の完成を待たず1855年に亡くなりますが、息子の英敏が、すでに1852年に日本初の反射炉を完成させていた佐賀藩の技士の手を借りて、韮山反射炉を完成させます。
 この反射炉で作られた大砲の数はいまだはっきりしないようですが、青銅製が5門以上、鋳鉄製は4門とされています。国防のために何としても作りたかったのに、鋳鉄製がわずか4門だけしかできなかったというのは、若干拍子抜けですが、当時の技術で生産するのは大変だったようです。鋳造だけなら一週間ぐらいでできたようです。しかし大砲の砲身の空洞の部分を中子(空洞の部分にはめ込む砂で作った型、鋳込んだあとでバラして回収できるので、空洞形状の鋳物を効率的に生産できる)で造形する技術は当時からあったものの、この方案ではうまくいかなかったのか、佐賀藩でも、ある時期以降はすべて大砲の形をした無垢の鉄の塊(空洞の部分も鉄がみっちり詰まっている)を鋳造し、砲身の部分を機械加工でくり抜く工法に一本化しています。それも今のように電気や内燃機関があるわけでもなく、近くを流れる川から水を引いて水車を回し、水車と直結したギヤで大砲を回転させる旋盤(のようなもの?)を使って、砲身をくり抜いたそうです。当時は工具も鉄製だったのでくり抜くのに相当の時間を要したことでしょうし、勢い余って砲身を突き破って穴をあけてしまうこともあったでしょう。精度的にもちゃんとしたものができたのか怪しげに感じますが、当時の大砲でも1~2kmぐらいは砲弾が飛んだとされ、韮山製の大砲の試し打ちをして、それなりに飛んだのを確認してから佐賀藩の技士が帰ったという記録があることから、それぐらいの飛距離は実現していたようです。(ただし不良率がおそろしく高かった模様)

江川英龍

 余談ですが、江川英龍は日本を欧米列強とわたりあえる軍事力を持つ国にするために、あえて欧米列強の技術を積極的に取り入れた人で、日本で初めて兵糧用のパン(今の堅パン)を焼いたことでも知られています。当時の兵糧といえばごはんを乾燥させた糒(ほしいい、今でいうアルファ米)でしたが、当然のことながら糒を作るにはまずご飯を炊く必要があり、そのとき発生する煙で敵軍に見つかってしまうリスクがありました。英龍は火を使わず携帯できる兵糧として、西洋の技術を取り入れて、自宅に竈を作り、1842年4月12日にパンの試作品を焼いたとされています。そのため英龍は今もパン業界では「パン祖」とあがめられ、試作品を焼いた日にちなみ毎月12日は「パンの日」とされています。英龍のスゴいところは、パンを焼いてみただけではなく、幕府にパンの素晴らしさを認めさせ、パンのレシピを作って全国に普及させたところで、日本人が今のようにパン好きなのも、少なからず英龍が影響していると言われています。
 また、英龍が作った農兵組織により農民の間でも剣術が流行り、これがのちの新撰組につながったとされています。ついでに英龍は農民たちを兵として訓練するために、西洋の文献を知り合いに訳してもらって、「気をつけ!」「回れ右!」「前へならえ!」などの号令を考え出した人としても知られています。これらの掛け声は今も普通に使われているわけで、なかなかスゴいことです。
 これだけの偉人ですが、私はこれまで江川英龍という名前すら知りませんでした。反射炉のガイドさんの説明によると、戦前は英龍も吉田松陰と並びたたえられ、教科書にも載っている偉人だったそうですが、英龍の偉業を簡単にまとめると、「欧米に負けないように日本の軍事力増強に邁進した」ということなので、アメリカにとっては「ケンカを売った人物」なわけで、戦後は進駐軍により歴史教科書から抹消させられたようです。

 韮山反射炉から帰りも約30分かけて歩き、再び「いずっぱこ」で修善寺に戻ります。お昼は伊豆の名物の「椎茸そば」「わさびごはん」をいただき、バスで河津桜で有名な河津を目指します。

温泉むすめと鉄道むすめ
椎茸そば


わさびごはん

 天城峠も見物したいところですが、雨が降ってきたのでスルー。やっぱりここはおっさん一人旅よりも「あなたと越えたい天城越え~」だったら雨でもまた楽しいものですが・・・・・・。私は知らなかったですが、河津七滝とかループ橋とかいろんな見どころがあるようで、天城峠では乗客が私ひとりになったのに、峠を越えるなりバスが観光客でみるみる埋まっていきます。終点の河津駅は周辺では「河津桜まつり」をやっており、えらい賑わいです。河津桜という早咲きの桜の名所があることはウワサには聞いてましたが、平日の雨降りの日にもこんなに混みあっているとは予想外でした。

河津桜まつり

 河津から伊豆急行JR伊東線で熱海へ向かいます。伊東で車窓から「ハトヤホテル」が見えました。「伊東に行くならハトヤ。電話はヨイフロ。伊東でいちばんハトヤ。電話はヨイフロ。4126 4126 はっきり決めたハトヤに決めた。伊東に行くならハトヤ。ハトヤに決めた」のCMは、私が子供の頃、関西でも流れてました。なつかし~い。吉野家の「牛丼一筋八十年。明日はホームランだぁ」とか、ヨドバシカメラ「まあるい緑の山手線、真ん中通るは中央線」のCMは、当時これらの店が関西になかったので、実際に流れることはなく、たまにマンガのギャグなどで出てくるので「何これ?」と思っていたものですが、そんな時代でもハトヤのCMは流れてたんですから、スゴいことです。当時は関西から泊まりに行く人がそれなりにいたのでしょうか?
 熱海から新幹線で京都までワープして、今回の旅行は終わり。バイト先の業績不振で出勤を減らすように言われており、3月は20日ぐらい休みがあります。3月もせいぜい旅行したいと思いますので次回作をお楽しみに。

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