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義務教育の呪いが私を拗らせた

私はなんてことない主婦で、飛び抜けた才能も趣味も技術もない。
特別な資格も、特別な学歴も職歴もない。
そんなことないよ!みたいな言葉が欲しいわけでもなく、素直にこう思っている。

私には、何があるんだろうと一人になると考える。
何がしたいというのも、時にはあったりするけど熱意を持って何がなんでもやりたい!と言ったものはない。

結婚をして子供がいて、それなりの人生は送っているとは思うけど、小さい頃から「このままじゃ終われない。私はこんなもんじゃない。」と常に思っていた。

その理由も本当の意味も自分じゃ理解していないのに、不思議なことに根拠なき自信はいつだって揺るがなかった。

私は学生時代、ちょっと変わった子のように扱われた。自分ではそんな自覚は全くない。馴染めない感じはなんとなくわかっていたけど。

義務教育の「集団行動」「みんなと一緒」「校則絶対」みたいな、あの空気が大嫌いだった。でも、いじめにあっていた私は、きっと私のこの考えや感覚がダメなんだと叩きのめされた。

何度も挫けながら、拗らせながら、ゆっくり大人になった。本当の自分を隠して。本当の自分は社会に適合できないと言い聞かせて。

結局大人になって、本当の自分の出し方を忘れてしまったし、案外自分を偽っても社会には適合できなかった。恋愛もしてきたけど、歪な愛情のやりとりにのめり込んでしまったし、本当の幸せって何なのか理解できないままだった。

現実と根拠なき自信は交じり合うことがないまま30代に突入して、焦りが出てきた。それなのに、根拠なき自信は色あせることなくずっと心の中心に居座っている。

この自信さえなくなってしまえば、いろんなことを諦めて、今の現実を幸せだと思えるのになぁと、堕落した私は暖かいコーヒーを飲みながら考える。

そんなことを考えいてもなお、根拠なき自信は揺らぐことなく私の心の中心にじっと構えている。大丈夫、そんなこと言っていてもこんなことでは終わらないんだよ。とでも言いたげに。・・・いや、そう言って欲しいのかもしれない。

最近、酸素が薄い。いや、別に私が山の上にいるわけではなくて、なんか古い自分のままでは、もう生きていけないような、今の私を手放さなくてはならないような、そんな息苦しさを感じているんだと思う。

でも、愛着のある今の私でいる方がきっと私は楽なのだ。いつだって、そうやって楽な方に逃げてきた。それがベストな選択なんだと言い聞かせながら。本当は逃げていただけなんだと思う。こんなこと認めたくないけど。

もう限界だ。こんな人生。
誰かのために生きるなんて、本当に綺麗事なんだと最近つくづく感じる。

きっと自分のために生きて、自分に優しくしているから、余裕が生まれて人のために何かができるんだ。その順番を間違えると、なんでも人のせいになる。自分の人生なのに、いつだって誰かに邪魔されているように感じるのは、結局自分のせいなんだ。

人生100年と言われているけど、健康で本当に自分のために生きられる時間はどれだけなんだろう。

その時間は子育てが終わってから、と先送りしていいものなんだろうか。

人生って、あっという間だとわかっているはずなのに、体が動かないのはなんでだろう。現実をそろそろ変えたい。もっと幸せになりたい。もっと自分らしい自分になりたい。

時代は変わったのに、小さい頃に叩き込まれた「集団行動」「みんなと一緒」が今も私を苦しめるし、早くこの呪いから解放されよう。

もう自由になっていい、この義務教育の呪いから。

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