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読んでない本の書評「イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ」

207グラム。「イワン・イリイチの死」といい、「クロイツェル・ソナタ」といい、どちらの中編もびっくりするほど面白い。

 インターネット時代の読書がすごいと思うのはベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」を聴きながら、トルストイの「クロイツェル・ソナタ」を読む、という体験が気軽にできるところだ。
 官能的な音楽に追い立てられるようにわけがわからなくなっていくコズヌィシェフの呆然自失を追体験できる。

 長距離列車の中で退屈しのぎに乗客同士で無駄話をしている。「結婚とは」というような話題で、老人が「女の忍耐次第じゃよ」とか言うところに女性が「愛ですわ」と食ってかかったりして、ワイワイやっている。
 そこに「横から失礼しますが、そもそも結婚って最悪ですよね」と水をぶっかけてくる変な男がいる。一気に場がしらけたところに「みなさん、当然わたしが誰かお気づきかと思いますが、妻を殺したポズヌィシェフですよ。」と真偽もよくわからない不穏な発言が放り込まれる。

  抜群に面白い幕開けである。これからの語り手であるポズヌィシェフが、正気なのかどうかもおぼつかない。スリリングな空気をのせて列車だけがまっしぐら進んでいく。最高。

 ポズヌィシェフは30歳で結婚をしたのだが、どうやら奥さんのことが好きすぎた。
 婚約期間に、わざわざ過去の女性関係を書いた日記を見せたりする。30男の所業としてはおよそ信じがたいが、なぜかそれが誠意だと思ってしまうような、生真面目で愛しすぎた男だ。

あれは結婚の三日目かそれとも四日目だったと思いますが、私は妻がさびしそうな顔をしているのに気がつきました。そこでどうしたのかとたずね、どうせ妻が望むのはこんなことしかなかろうと見当をつけて、彼女を抱きにかかりました。ところが妻は私の手を払いのけて、泣き出したのです。なんで泣くのかとたずねるのですが、妻はその理由が説明できません。でも悲しくてつらくてたまらないのです。おそらく散々痛めつけられた神経が彼女に、私たちの関係がいかに忌まわしいものであるかという真実をそっと告げていたのですが、彼女はそれを言葉にできなかったのです。

 何もかも間違えてすごくおかしい。新婚三日目の妻が急に泣き出して新郎がどうしていいかわからずにオロオロしているなんて、むしろ愛らしくてちょっといい話じゃないか。

 いきなり押し倒したのはたしかにまずい。いや、まずくないケースもあるかもしれないから一概には言えないのだろうか。西野カナあたりに聞けばわかるのだろう。
 たぶん、結婚で急に生活環境が変わった若い娘がちょっと感情のコントロールを失っただけのことに、ポズヌィシェフは傷つきすぎてしまったのだ。

 おかしくもかなしいのは、いまだに間違えたまま、ということだ。結婚生活が破たんした後になっても、合法的に強いられた肉体関係がおぞましくて泣いたのだ、と思いこんでいる。性欲に罪悪感を持ちすぎだ。真面目で優しいのだろう。

 喧嘩の絶えない夫婦生活だったというものの、妻は五人の子どもを産み育ててくれる。しかし衰弱のため医者のすすめで、もう子どもは作らないほうが良いということになる。肉体的な夫婦生活がなくなるのである。
 出産と育児から解放されて妻は綺麗になっていく。愛しすぎる男ポズヌィシェフは苦しくなっていく。

 そのころ音楽を教えてにきていた男が妻とクロイツェルソナタを演奏する光景をみて、あまりに官能的な音色に嫉妬し、不倫をしているに違いないという疑いから離れられなくなる。

 ある日、深夜に音楽教師と妻が二人きりで会っているところに居合わせたポズヌィシェフは、ついに不倫現場を押さえたと思い込んで妻を短剣で刺し殺してしまう。
 妻の肉体に短剣が入っていく詳細な描写は、それは実は殺人ではなく、ひどく暴力的な形をとった性交渉だったのかもしれないという可能性も暗示させる。どちらにせよ、夫婦関係は破綻した。

 愛しすぎた男の記録としては、後悔のあまり極論に走りすぎている変な結婚哲学も、見当違いな愛妻への対応も、随所ほんとうにおかしい。
 そして、やがて悲しい。夫婦間で性欲の強さに著しい差があった場合に、結婚制度のもとでは、生真面目で優しい方がより深く傷つかざるを得ないのは本当に残酷なことだ。

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