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読んでない本の書評53「見えない都市」

135グラム。マルコ・ポーロがフビライ汗に語って聞かせる都市の話。「枠物語」と言われるとちょっとうれしいのは「アラビアン・ナイト」のわくわくが脳内でBGM再生されるせいだろう。

目の前に魔法の絨毯を広げるように、不思議な都市が次々と立ち上がっては消えていく。読んで大変に気持ちの良い本なのである。ああ、なんてかわいらしいひとつひとつの祝祭、誰かこれを全部ジオラマにする人なんかいないものかしら…などと興奮気味に幻想的な都市を巡っていく。


 そしてハタと気付いてしまうのである。タイトルが、どことなくよそよそしいことに。こっちが「まあ。目に見えるようだわ」と思いつつ読んでいて、書くほうだって超頭よくて文章のうまい人が「これでどうだっ」という確信のもとに書いているに違いないものを、「見えない都市」っていう突き放し方はどうなの。ほとんど見えているようなものだと思いたいんですけど、もうちょっと優しくしてもらえないの。

そんなことを考えていたら、フビライ汗が急にこんなことを言い始める。

「なぜお前は石について語るのか?朕にとって重要なものは、ただアーチだけである。」ポーロは答えて言う。「石なくして、アーチはございませぬ。」

 これはフビライが悪い。こんなに気持ちよく夢中にしゃべってる上手な語り手にそんな水のぶっかけ方はないはずだ。ポーロの話、めちゃめちゃ面白いではないか。

 私は子どもの頃、わりと本を読むほうだった(当時ネットとスマホがなくて運がよかった)。対して兄は読むのが苦手だったのだけど、たまに私が「これおもしろい」と言ったものを手に取って読もうとしてみたりはするのだ。そうしてしばらくページをめくると、必ずこう言った。「これ、何か起こる?」

 どういうことなんだ。何か起こらなくては本じゃないのか。君が読みたいのは事件の報告書なのか…などと思いつつも、まあ彼の言う事もまるきりわからないでもなかった。アーチがみえないと良い橋か悪い橋か、判断しようがないって言いたかったんだろう。まっとうじゃないか。

 巻末の訳者あとがきにはこんな文章がある。「そこに見出すものは、そう、ボルヘス的な<無>と幻想の世界なのかもしれない。」
 そうかっ、ボルヘスか。一か月も前からずっと私の机の脇に気まずく積んだままになっているあれ。ひとつひとつの文章はけっして退屈ではないのに、全体としてはどうしていいのかよくわからなくて放り出してある、あのボルヘスと比べられるのか。

 全体が見えないときのとりつき方って、いろいろあるんだろう。体力のある人は「これってなんだろう?」と思いながらまず丸のみして、消化しながらおいしいかまずいか決められるんだろうし、頭のいい人は勉強して外堀から埋めていくんだろう。私みたいにいつも眠たい人間はただぼんやり無意識のチューニングがあう日を悠長に待ってたりする。

 カルヴィーノ橋はどこにかかってるのかよくわからないけど楽しかったからまた渡りに来ようと思う。ボルヘス橋はどれくらい長いのかよくわからないから天気のよさそうな日に体調がよかったらわたってみる。
 そうやって、思い込みの橋をたくさん渡っていく遊び。そういうことで、いいだろうか。

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