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読んでない本の書評92「フランケンシュタイン」

 236グラム。知っているようで知らないフランケンシュタイン。そもそも「彼」には名前がない。名前すら付けられないまま創造主フランケンシュタインに捨てられた怪物の孤独。

 胸を打たれる悲しい話だ。名もない怪物は知能が高く、感性豊かで魅力的である。そしてたいへんな読書家なのだ。

 優秀だけど思慮の浅い科学者フランケンシュタインは、死体をつなぎ合わせて怪物を作りあげる。無責任にも完成したとたん、その醜さにびっくりして逃げ出してしまう。
 怪物は醜さ故に誰とも交わることができず、一人さまよったすえ、粗末な小屋に身を隠す。そこから盲目の老人とその貧しい一家の様子を覗き、はじめて人間の団らんを目撃する。

その笑みのなんと優しく、なんと慈愛のこもっていたことか。それを見たとたん、おれは何とも言いようのない不思議な気持ちになり、圧倒されてしまった。苦しみと歓びが入り混じっていて、そんな気持ちになったのは初めてだった。飢えや寒さに苦しんでいたときも、暖かさや食べ物を手に入れたときも、そんな気持ちになったことがなかった。その感情の激しさに耐えられなくなって、おれは窓から離れた。

 経験したことのない強い感動をどう扱っていいのかわからずに、思わず窓から身を離してしまう怪物の、子どものような感受性の強さが胸に響く。
  彼がこの時表現できなかった気持ちを自分で理解するための助けになるのは偶然拾った本、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』なのである。

  実に困ったことである。『若きウェルテルの悩み』は、私もごく最近読んでいる。
 友達の婚約者に恋をしてしつこく付きまとった挙句、あてつけがましい遺書を書いてピストル自殺する困ったおぼっちゃんの話である。しかも、随所で、やれ身分の低い人と交流するのが好きだの、ぼくは子ども好かれる、だのといちいち上から目線ダダ漏れなのが終始鼻につく小説だ。
 この小説に、純粋な怪物はひどく心を打たれるのである。

そこに描かれている人間たちの穏やかで家庭的な振舞いが、自分を抜きにしてもっぱら他者へと向けられている高潔な思いや感情と結びついているさまは、おれが守り手たちのあいだで見聞きしたことと見事に一致していたし、この胸の奥で絶えずうごめく欲求ともぴたりと符合していた。しかし、なんといっても、ウェルテルその人こそ、これまでにおれが眼にした、あるいは心のなかで思い描いていたどんな人間よりも、ずっと気高い者に思えたね。

 ほんとうにわたしはだいぶ反省したほうがいいだろう。たえず目線が上からとか下からとか、どうでもいいことばかり気にしてるからウェルテルのことまで嫌な人間に見えてくるのだ。かくも素直な眼差しで読めば、ウェルテルって実はいいやつなんだな。

 怪物は『若きウェルテルの悩み』から愛を、ミルトンの『失楽園』から創造主のことを、コートのポケットに入っていたフランケンシュタインの手記からは自らの出自を学ぶ。
 そして、家族の愛、男女の愛、親子の愛、いろんな愛を求めて懸命の努力をするが、望みはひとつとして報われない。
  孤独と怒りの中で苦しみ抜いて、最後は自分のために死を選ぶ。苦しみのすえ魂を安らげるための死ということも、おそらくは彼がウェルテルから学んだことのひとつなのである。

 どれほど読んでも「しっかり読めたな」と思う本は、実際何冊もないものだ。孤独な人生の中で手に入れたわずか数冊の本をこんなにも深く読んで生きた読書家としての怪物の聡明さは正直うらやましいくらいである。
 フランケンシュタインは、どうして自分で世に生み出したこんなにもまれな美徳を、見抜けなかったものだろう。

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