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115「デイジー・ミラー」ヘンリー・ジェイムズ

191グラム。『ねじの回転』『デイジー・ミラー』と二作つづけて読むと、内容はさておき「女性は怖い、特に美人はめっちゃ怖い。美人であれば8歳児でもじゅうぶん怖い」というヘンリー・ジェイムズの心の叫びがひしひしと伝わってきて、気の毒ながらちょっと面白い。美人との間に何があったんだ。

 デイジー・ミラーはアメリカの大富豪の実業家の娘。ぼんやりした性格の母と、わがままな幼い弟と一緒にヨーロッパを旅している。
  デイジーはウィンターボーンというアメリカ人青年と出会う。彼は子どものころからジュネーブでピューリン式の厳格な教育を受けた上流社交界の人だ。デイジーがあんまり美人なのでウィンターボーン青年は舞い上がる。
 しかしウインターボーン青年の周囲の在欧アメリカ人社会はヨーロッパ式の厳格なマナーを良しとする人々だ。自由人過ぎるデイジーは寄ってたかって社交界から締め出される。
  ウィンターボーン青年は「えー、デイジーって教養がないだけで悪い娘ではないと思うんだけどなあ。でも伯母さん超怒ってるし、怖いし……」などとぐずぐず言ってる間に、なんとデイジーはマラリヤであっと言う間に死ぬ。

 アメリカでは出版直後からいきなり大ヒットした作品だそうだ。アメリカ人には「あーはっはっ、美人で田舎育ちのアメリカ娘ってこんな感じだよねえ」とか「ボタンホールに花さして金持ちのアメリカ人旅行者をナンパしてるイタリア人超ウケける」とか「ヨーロッパで教育うけたくらいで気取ってるつまんない男いるよねえ」とか膝叩いて笑いながら読む、「翔んで埼玉」みたいな作品だったのだろうか。

 文学解説的にはどこを見ても「アメリカ的イノセント」が「ヨーロッパ的因習」に闘いを挑んで負けていった話ということになっている。なるほどそうかな、とも思うがどうにもヨーロッパに挑んだというにはデイジーの中身が空っぽすぎてピンとこないところはある。
  朗らかなことと美人であることくらいしか長所がない。もう少し意識的に「自由」を選び取るような自立性があればデイジーにも思い入れが湧くものを。ヘンリー・ジェイムズの文章はいつも口ごもるようにぼんやりしている。

 さらにだらしがないのはウインターボーン青年がデイジーが死んではじめて彼女の価値観を理解しようとするあたりだ。
 デイジーとこれ見よがしに遊びまわってたために社交界から蛇蝎のごとく軽蔑されていたハンサムなイタリア人青年ジョヴァネリと葬式のときに会って言葉をかわす。

「あの方は、私の会った、もっとも美しく、もっともやさしいお嬢さんでした」それからちょっとして、「もっとも無垢な方でした」と付け加えた。ウインターボーンは相手の顔を見、しばらくしてその言葉をおうむ返しに言った。「もっとも無垢な方?」「もっとも無垢な方でした!」
(中略)
ウインターボーンは相手の言葉に耳を傾けながら、四月のひな菊(デイジー)のあいだにある新しい墓をじっと見つめて立っていた。

 洋の東西を問わずひな菊はイノセントの象徴であるらしい。なんとイタリアにもアメリカ人の「野菊の墓」があるのだ。デイジーさんはデイジーのような人だね。 

  そうしてウインターボーンは反デイジー運動の先頭にたっていたコステロ伯母のところにわざわざ出向き、自分はデイジーを誤解していたのではないか、などとやくたいもなことをぐずぐずというのである。
  「あなたが誤解していたからといってそれがあの人にどういう影響があったというの?」という真っ当な言葉を返されたのに対して、僕は外国生活が長すぎたから過ちを犯す運命だったのです、などとわけのわからない返答をする。まるでしまらない。

 そうして、デイジーと会う前と同じように、またジュネーヴに戻って、「勉学中」もしくは「ある外国人婦人に懸想している」と噂をされながらふらふらとヨーロッパ暮らしを続ける。多分デイジーの墓参りにもろくに行かないんだろう。ヨーロッパ式教育をもってしても、いっこうに煮え切らない。

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