128「晩年」太宰治
219グラム。20代で出した最初の作品集のタイトルに『晩年』とつけたうえに、冒頭から「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」というヴエルレエヌの引用から入ってしまうあたり、一行目から太宰治が過ぎる。喧嘩売ってらっしゃるんでしょうか。
本の少ない家で育ったけれど、不自然に立派な太宰治全集だけ全巻そろっていた。思えば、あの頃そういう家庭は我が家以外にも結構あったのではないか。
誰も読んでないのでページがまだくっついているその本の、私は最初の方をそれなりに熱心に読んだのだろう。この処女作品集『晩年』は、意外にも収録作品のほとんどを読んだ覚えがあった。
私小説風、民話風、歴史小説風、と一冊に入れるには少しがちゃがちゃしすぎじゃないかしら、というくらいいろんなスタイルの短編が入っている中で、今読み返して目を引くのは『道化の華』だ。
八番目に入っている『道化の華』の、主人公の名前が大庭葉蔵だったとは気づかなかった。そうか死の直前に書かれる『人間失格』の主人公と同じ名前だったか。
『道化の華』が面白いのは、書きながらしつこいほど自分にツッコミを入れ続けているところだ。
大庭葉蔵はベッドのうえに座って、沖を見ていた。沖は雨でけむっていた。
夢より醒め、僕はこの数行を読み返し、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思いをする。やれやれ、大仰きわまったり。だいいち、大庭葉蔵とはなにごとであろう。
なにごとであろう、って言われてもね。主人公の名前くらいにはせめて責任を持ってもらいたいものだ、作者なんだから。
これが、凝った文体の短編をさんざん見せつけられた後に配置されているのを見ると、どんなに一生懸命フィクションを書いても私小説だと受け止められてしまうことへの苛立ちのようなものを感じとってしまう。
心中未遂で自分だけ助かって新聞沙汰になった事件をわざわざテーマに選んでおいて「なに書いたってどうせゴシップと重ねてしか読んでもらえないんだろう」というほとんど逆切れと、わざわざ破綻させてまでフィクションを宣言し続ける反抗心、両方がひしひしと伝わってくるようだ。
この、いわば副音声つきの小説に感心するのは、ワープロのない時代に書かれていることだ。いったん、端正な私小説風の作品を書く。それに同時進行で作者の愚痴を混ぜ込んでいく。パソコンならコピーアンドペースト機能を使って行けばそれほど苦労しないことではあるが、コピー機さえない時代にどうやってそんなことをするのか。原稿用紙を切り貼りして並べるのだろうか。
おそらくは普通の小説の倍はかかるだろう手間をかけてヘタウマ絵みたいに仕上げた『道化の華』は、手法は面白いが中身のほうはもはや面白いんだかなんだかよくわからくなっている。しかし、アイ・シャル・リターン、10年後くらいに遺作『人間失格』でもう一度大庭葉蔵が出てくるのだ。
二周目の大庭葉蔵は、三枚の写真と三つの手記によるぐっとシンプルな構成だ。おかげで一周目のときのように作者に付きまとわれて世界観を破壊され続けるという憂き目に合わずにすみ、自意識エンジンだけで逃げ切れたかにも見える。それでも文末でわざわざ「多少誇張しているところもある」なんて語り手に突っ込まれていて、どれほど「自分」に近づいていても、やっぱりフィクションであることには言及されるのだ。。
太宰があと10年生きたら、もしかしたら三周目の大庭葉蔵にもお目にかかれたのではないだろうか。この、あくまでフィクションの世界をフルスロットルで駆け抜ける中二病魂の、それでも気恥ずかしい言葉の力を信じていたい気持ちと、いい加減勘弁してくれよ、の両方のベクトルを持ったままひとつの世界に収める大庭葉蔵シリーズ。せっかく処女作品集に入っているのだから、間を置きながらもっといろんなスタイルで量産されるのも見たかった。
タイトルで煙にまいたり、一行目からビビらせようとしたり、そこここで私小説の大家(a.k.a.志賀直哉)に喧嘩売ったり。処女作品集からサービス精神が過剰でいかにも苦労しそうな人ではある。太宰が過ぎる。
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