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ふと思い出した蜂の話

僕の田舎は文字通り大変な田舎で、小学生のときにはしばしば、歳の近い従兄弟と3人で近所のドブみたいな所へ行き、昆虫やおたまじゃくしを探して遊んだ。
「ドブみたいな所」と書いたが、あれが狭小な河川なのか、人工的な用水路に類するものなのかも、今となってはわからない。現存するのかもしれないが、今のところ努めて確かめようとも思っていない。年始の家族旅行が習慣化したことにより、最近では年に1回あるかないかもわからない帰省のタイミングで、近所といってもわざわざ見に行くほど近くもないし、その価値があるとも思えない、それくらい何ということもない水の流れだ。
舗装された細い路地を外れて急な土手を数メートル降りると、そのささやかな水場はある。土手には、垂れ下がるほど丈の高い雑草が端から端までもうもうと繁茂しており、やぶをかき分けかき分け降りた先のわずかなすき間に、浅い流れがちょろちょろと流れていた。田舎だからといって清流と表現するのもしっくりこないような、入るのをためらうほどの汚ならしい流れだ(実際、意図的に水浴びをしようとした記憶は一切ない)。

ある日、この水場の付近でやぶこぎをしていると、不意に数匹のミツバチがわっと舞った。
「はちだ!」と叫び、とっさに走り去る従兄弟たち。昔から反射神経も素早さも人より劣る僕が逃げ遅れ、あえなく後頭部を刺される。泣いたかどうかは覚えていないが(おそらく泣いていない。あまりフィジカルな痛みでは泣かない呑気な子どもだった気がする)、とぼとぼと歩いて家に帰り、祖母に手当てを乞うた。

我々子どもが外でけがをして帰ると、祖母はきまって棚から茶色のビンを取り出して治療にあたった。彼女はそれを「はなのくすり」と呼んだ。中にはツンとにおう黄色の液体と、それに浸かった、ふやけたナスの身のような太くて長い茶色のぶよぶよ(僕はそれを、何かの花弁が薬液を吸って肥大化したものだと信じていた)が詰まっている。切らしたところを見たことがないので、おそらく定期的に来る行商の薬屋さんから買っていたのだろうが、委細は不明である。
軽めの傷には、薬液で湿らせたティッシュの黄色い所をとんとんと付ける。傷が大きかったり深かったりすると、ビンの細い口からピンセットでぶよぶよの一部をちぎって取り出し、患部に直接あてて擦り付ける。今でもあれが何だったのかはわからないが、30年たってもまったくもって健康なのだから、何だっていいと思う。

僕が蜂に刺されたのは、後にも先にもこのときだけである。だから蜂にまつわるエピソードを見聞きしたり、蜂そのものを見たりすると、必ずこのときのことを思い出す。この日祖母が取り出した薬が「はなのくすり」ではなかったのも、印象的な記憶として残っている要因のひとつだろう。

頭を抱えて蜂に刺されたとわめく僕と従兄弟に祖母は、「蜂に刺されたときはヤクルトだ」と言った。

ヤクルトとは、ご存じ乳酸菌Lカゼイシロタ株のヤクルトだ。たしか薬の行商と同様に、ヤクルトさんも定期的にうちに通っていた。
祖母はおもむろに冷蔵庫からヤクルトを取り出し、僕の頭をうつ伏せにもんぺのひざの上にのせると、蓋に小さく空けた穴からヤクルトを垂らして指先を濡らし、その指で僕の後頭部をわしゃわしゃとかき乱したのである。
しみたりはしなかった。たぶん刺されたところに指が当たる痛みはあっただろう。でも今なおはっきりと覚えているのは、蜂に刺された瞬間の小さな鈍器で殴られたような鈍い痛みと、祖母がヤクルトを付けた何本かの指で僕の後頭部をわしゃわしゃとやり、髪の毛が少しずつ濡れていく感覚だ。

何日かして腫れと痛みはひいた。ヤクルトの成分がどう蜂の毒とか痛みに有効なのかはわからないし、知りたいとも思わない。僕たちが遊んだ水場や、僕たちに塗布された薬液の正体と同じだ。
けれど、祖母が愛情いっぱいに育ててくれたおかげで今の僕は健康だし、祖母がくれた優しさを、僕自身が周りの人に注いでいくことが、今は亡き祖母が生きた意味のひとつであり、僕が人生をかけてすべきことのひとつだと思って暮らしている。
今日も寝る前にヤクルトを飲むのだろう。

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