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中島 らも『永遠も半ばを過ぎて』【基礎教養部】[20230515]

最近、コミュニケーションについて考えている。

哲学なんてものに取り憑かれている私のような人間は「言語運用に自覚的であること」を求められる。それは社会からではない、自分自身から求められるのだ。
もちろんその自身からの要請を一時的に無視することはできる。社会生活を営んでいく上で一々「言語運用に自覚的であること」を意識していたらまともなコミュニケーションがそもそも成り立たない。
しかしこれもまた困ったことに、哲学に取り憑かれている人間は無意識にいろんな事を思考してしまう。
そして「言語運用に自覚的であること」を放棄していると、その時にしっぺ返しを食らう。自覚的でない言語運用を日常生活で繰り返していると、ふと言語運用に自覚的になった際に自己矛盾に陥るのだ。そして哲学なんてものに取り憑かれている私みたいな人間は、それを無視できない。
そしてその自己矛盾を解消するためにまた考え出す。

自分で書き出していて気付いたが「なんて不器用なんだ」と思う。構造的に不器用なのだ。ならば仕方がないのだろう。

もうこの時点で読んでくれている方とコミュニケーションエラーが起こっている可能性が高いが、めげずにここでコミュニケーションの定義付けをしてみる。

コミュニケーション:気持ち・意見などを、言葉などを通じて相手に伝えること。

コミュニケーションは上記のように定義付けることができるだろう。
ここで重要なのは最後の部分の相手に伝えることの部分が、主語が「私」なことだ。
つまりコミュニケーションとは「私」が「あなた」に「伝えること」なのだ。
そして「伝えようとすること」でもなく「伝わること」でもなく「伝えること」なのである。

さて、「コミュ力」という言葉がある。コミュニケーション能力のことだが、では「能力」とはなんだろうか。
能力:物事を成し遂げることのできる力
と定義付けできるだろう。

ここでおかしな話になってくる。
能力が「物事を成し遂げることのできる力」であり、コミュニケーションが「気持ち・意見などを、言葉などを通じて相手に伝えること」であるならば、コミュニケーション能力とは「気持ち・意見などを、言葉などを通じて相手に伝えることを成し遂げることのできる力」となる。
しかし「気持ち・意見などを、言葉などを通じて相手に伝えること」は、やるかやらないかの話ではないだろうか。
やるかやらないかの話なのであれば、世間一般で言われているコミュ力(コミュニケーション能力)が高いのか低いのかといった話はそもそもが的外れな議論である。なぜなら、定義から考えればそもそもコミュニケーションとは「気持ち・意見などを、言葉などを通じて相手に伝えること」であり、そしてそれはやるかやらないかの話である。
そうであるならば、能力が「物事を成し遂げることのできる力」なのでコミュニケーション能力(コミュ力)に高いも低いもなく、当の本人がやるかやらないか、それだけの話なのである。

狐につままれたような気分になってきただろうか。しかし私は狐になったつもりはない。

言葉を定義し、そこから議論を積み重ねていく。その積み重ねが自覚的な言語運用に基づいている限り(当人にとって)正しく議論が積み重なっているはずなのだが、その積み重なった先がエクストリームになればなるほど世間一般の感覚とズレを起こす。
その体験を皆さんにこの記事で擬似体験していただければと思い「コミュ力」を例に出して今回こういった話をさせていただいた。

本書の中でも、いろんな形のコミュニケーションが出てくる。
ここまで「定義がどうの、言語運用がどうのこうの」と言ってきたものの、本書を読む際は何か難しいことを読み取ろうとする姿勢で読むのではなく、肩の力を抜いて楽しんで読んでいただきたい。

ここまでで私の伝えたかったことがどこまで皆さんに伝わったかどうかは分からない。
しかし、コミュニケーションとは「伝える」ことだ。
そして私はこれからも「コミュニケーション」をやめはしないだろう。



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