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「言語道具論」に抗する

「言葉/言語は道具でしかない」このような物言いを多くの人が、特に言語の学問に生きる人なら何度か聞いたことがあるだろうと思う。皆さんは賛成だろうか。反対だろうか。普段の私なら特に意に留めることもなく流す発言だが、今回は反対の立場をとってこの「言語道具論」を否定しようと考える。

まず、ここで言う「言語道具論」とは、「言語はツールでしかない」という言説のことを指していて、「言語は道具である」という命題自体を私は否定したいわけではないということにご留意いただきたい。最もよく世間一般で言われているこの「言語はツールでしかない」という発話に対して考察を重ねていくことが目的であり、「言語が道具である」という一つの側面自体には否定しない。

尤も、その考え自体に警鐘を鳴らす物書きもある。『はじめての言語学』(黒田龍之助)の38Pには以下の記述がある。

(前略)
ここで一つだけ反論しておきたい意見がある。それは言語道具論だ。
 言語は道具ではありません。似ていないことが多すぎる。まず簡単に手に入らない。金を積んでもダメである。でも、いちど手に入れると失うことはあまりない。その使い方はずっと多様だ。そして目には見えない。いまいちはっきりしないけれど、でも間違いなく存在していて、それ自身が研究対象になるのだ。だから言語学があるのである。


まず、細かいことから見ていこう。この「言語はツールでしかない」というこの言い方。なぜわざわざカタカナを使って表しているのだろうか。「言語は道具でしかない」と意味は同じはずなのに、なぜわざわざ英語のtoolを用いて表現しているのだろう。さらに言えば、「言語」を「道具」と表現するこの仕方も直喩だと言える。この際の「道具」は「手段」と言い換えても差し支えが全くなく、むしろ「道具」と書いた方が、若干ではあるが、読み手に考えさせる物の言い方をしている。

ここに、表現者の言語に対する「苦手意識」を読み取ることができると私は考えている。何故なら、道具である「だけ」ならば、言いたいことが言えればそれで役割は果たされているのである。なぜ言いたいことを直接言うのではなく、このように「言語はツールでしかない」といった回りくどい言い方をしているのだろうか。そこが私が今回、問題を抱いたことの発端である。

次に、「言語は道具でしかない」の論調には、言語に対する「甘え」の姿勢を見て取ることができる。そこで排除されているのは、言語に対する「可能性」であり、それが肯定的なものであれ否定的なものであれ、かなり危険な考えだ。道具であるならばそれをどう使っていくかを考えなければならない。使い方を間違えれば人間関係を劣悪なものに陥れるその道具は、慎重に扱っていく必要があり、「でしかない」などと言って蔑ろにしてよい代物ではないのである。それをどう生産的な方向に使っていくのかを人は常に考えなければならないし、ここに道具としての言語の活きる道が存在している。

また、「言語」を「道具」としてしか見ていない人の落とし穴など他にいくらでもある。言語と一口に言ってもその範囲はかなり広い。例えば「歌」「書道」「詩」。これらは言語を用いた表現の手段であり、その目的は必ずしも意志の伝達ではない(詩はそのような性質をもっていて、歌はそれに比べるとその性質は少ないと言える)。

「書道」で「蒼い空」と書く際に、人は何を伝えようとしているのか。ここに言語の「道具」としての働きはどれほど認めることができるのであろうか。人が「蒼い空」と書くとき、また、「夢」と筆を走らせるとき、そこに何か伝えたいメッセージはどれほどあるのだろうか。といった問いである。大抵書道において評価されるのはその文字自体の美しさであり、実際にどういう内容を表現しようとしているのかといったことはあまり評価されない。ここにおいては言語の「文字」としての機能を利用した芸術の体現である。


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