なりたい自分と、なれない自分。自分らしく生きること。
なりたい自分。なれない自分。自分らしく生きること。
これらのすきまで身動きがとれなくなるのは、だれだって苦しい。
涼しい顔してそこに立っているように見えるあの子だって、両足のつま先には、ぐっと力がはいっているし、食いしばった歯のあいだからは、たぶん、悲鳴がもれている。
なりたい自分、なれない自分、自分らしく生きること。は、いつも対極にいて、大きな三角形を形成している。
そのバランスは、いつだってアンバランスだ。
自分らしく生きたい。だけれど、なりたい自分がある。なりたい自分があるけれど、なれない自分もいて。だけれど、自分らしくも生きたくて。
じゃあそもそも、”自分らしく” はなんなんだろう、と、最初に巻き戻される。
そんなぐちゃぐちゃに混ざったマーブルのような想いの中で、きっとみんな、もがいている。
なりたい自分と、自分らしく生きることは、たびたび喧嘩する。
多分、わたしにとってそれの一番わかりやすい例が、「大勢の前でハキハキと自分の考えを、堂々と話すこと」だった。
伝えたい想いがある。だけれど人前で話すことは大大大の苦手。
"わたしらしい" はきっと、縁の下でだれかを支えること。だけれど、大勢の前で堂々と話せるわたしになりたい。
そんな喧嘩をずっとずっと、繰り返していた。
“ 堂々と人前に立って、話したり、教えたりする「わたし」を一旦諦めてみよう“
そんなことを決めたのは、今年のはじめ。
引っ込み思案のわたしが、なりたい自分が、やっとの思いで手にいれた、このポジションを、わたしは今年すこし離れた位置から眺めてみることにした。
この1年、たくさん喧嘩をした "自分らしく生きること" がたぶん、"なりたい自分"に勝ったのだ。
それは同時に「なれない自分」を受け入れて認める覚悟が、やっとできた、ということなのかもしれない。
なりたい自分となれない自分を、認めて、すり合わせて、捨てて、拾って、「自分らしく生きる」を、言語化していくこと。
これはわたしの仕事。これはあなたの仕事。とひとつひとつ丁寧にラベルを貼っていくこと。
きっとそんな作業が、対極にいる、複雑な彼らと仲良くやっていくための。
背伸びしすぎず、自分の呼吸を、ゆっくり整えるための。方法なんじゃないか。
そう、思うのです。
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