本当はすこぶるすごい、高度な子育てに挑むママたち
子どもが気付かぬうちに、こんな優しい心をもった瞬間が垣間見えました、といった微笑ましいブログ。
ほっこりと心温まりますね。
お母さんの人となりが垣間見えるようなエピソード。
そして、なにより、それを幸せに感じて感謝する思考に、多くの人が自分自身にあたたかく優しいリセットをかける事でしょう。
そのエピソードが優しいリセットになる時は、そのエネルギーをたっぷりもらって、隣にいるかわいい我が子に微笑んであげてください。
でも、もしそれが、とても辛く悲しい孤独をうむときは、
自分の事を決して心の狭い人間だと思う事なく、
すでに、限界値ギリギリまで一生懸命子どもと向き合っているという自分を評価すべきです。
一生懸命な自分の中にある、一生懸命にならざるを得ない理由はなにか。
定型発達の子育てをするお母さんには、決して理解される事のない複雑な理由とエピソードが山ほどあるはずです。
●例えば、どうしても帽子をかぶってくれない。
さて、制服で集合写真をとりましょう、となった際に、帽子をかぶってくれないと、何が困って何が気になるだろう。
そもそも、帽子をかぶらないのは、誘導が不十分だったり、わがままだったりするのか。
●例えば、同じリズムの揺れから感じる感覚に身を置くと、なかなかやめられないブランコ。
ブランコの順番をある程度の間隔で自然と変われる子がルールの守れる立派な子で、優しい心の持ち主とすると、変われない子は優しい心というものを持っていないのか。
帽子をかぶって気持ち悪いと感じている事を、誰もが理解できる世の中ならば、誰も待たせず、笑顔の集合写真がとれるでしょう。
その気持ち悪さや困り感の存在が、理解される事がない環境ならば、不可解オーラ全開の視線を、否応なしに感じ取るしかありません。
ブランコにユラユラ揺れて、なかなか順番を変わらない子は、優しい心がないのではなく、ユラユラ揺れている事にただこだわっているだけのことです。
なんとなくの匙加減で交代するルールでは、ただひたすら難しいのであって、心が意地悪なのでも、わがままなのでもありません。
でも、場合によっては、自分勝手でわがままなレッテルをいとも簡単にはられてしまう。
親の方は、何回揺れたら交代ねと伝えたり、タイマーを用意したり、いつでも親が同伴したり、フワフワする感覚を別の用途で満たして事前安定をはかったり、既にいろんな一手間ふた手間をかけて、なるべく同じように出来るところへ導こうと一生懸命なはずです。
子どもは、ちゃんと、親が心からむきあえば、必ずできるようになり、必ず伝わる、
とするならば、(一筋縄ではいかぬ部分、必ずではない事も承知の上で)
何かが出来るようになるまでの過程に、大きな違いがあるにもかかわらず、ここに子育てのハードルに差がない事はありえません。
完成形が同じに見えるその姿の裏には、多大な時間と労力と工夫があることでしょう。
高度な子育てに向き合い、それを積み重ねた懸命な姿と実践は、
あたたかい家庭と素敵な人となりを想像させるエピソードに負けじと劣ることなく、
むしろそれ以上に、人の心に響く最高に評価されるべきストーリーを歩んでいます。
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