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新劇場版シン・ヱヴァンゲリヲン(1)

新劇場版ヱヴァンゲリヲンを見ている。昨日で9回目になった。
僕は映画を見る習慣が無い。

人生で数えても、自分の意志で「観たい(観に行きたい)」と思い、時間を確保して、映画館まで移動する時間や費用を考えてとなると、大人になってから映画を劇場まで行って見る事は無かった。

子供の頃まで遡れば、親に連れて行ってもらった映画や、友達たちが行く映画を一緒に見に行くことがあっても、それなりに大人になって、自分の意思で映画を見る。その映画から何かを感じようとして映画館に行く事は、これで2度目。2作目だと思う。

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僕が今でも好きな映画。七里圭監督の「眠り姫」。

今でも影響を受けているけど、アンコール上映で一度見ることが出来ただけで、それ以降はタイミングがどうしても合わなくて観ることが出来ていない。

それでも僕の中で「眠り姫」の世界観や色、空気は確実に残り続けていて、作品の説明や理解ができているのかと聞かれたら正直応えることが出来ないれど、それでも僕の人生に大きな影響を与えている。

もう少し「眠り姫」の話をしたい所だけれど、今はここで置いておいて。

でも、今回「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観た事で、僕の中の大切な映画、影響を受けた映画に2作目が追加された。

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僕の中で映画を映画館で見る事というのは、音楽や音楽のライブと同じで、それを観る(聴く)理由が必要になる。理由というのは、作品への想いや、背景にある今の自分の日常が「理由」になって原動力になる。

時間と労力も費用もかかる。だから映画館までの道中、帰り道の風景も、その時に考えていた事や想っていた事、悩んでいた事、苦しかった事、辛かった事。人との出会い。それらも抱えて覚えておきたいのだ。

そうして記憶に残れば一生の想い出になる。

だから、どんな事においても「理由」と言うのは大切で。理由が無ければ、わざわざ力(時間や費用や労力、諸々を調整して必死になってまで)を割いてまで観に行く必要も理由も生まれないのです。

話は脱線したかもしれないけれど、大事なのはそういう事であって。
僕はそういう生き方をしています。

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今回、新劇場版「シン・ヱヴァンゲリヲン」をこれだけ観るとは思っていなかった。

映画の4部作の発表時、自分は劇場版を観る気が全くなかった。現にその4部作の前回までの3部作「序」「破」「Q」は一切見ていない。内容は少しは聞いたことはあるけれど、キャラクターや設定、話が変わっているという事を知っているだけに留まっています。

理由は、「観なくて良いと思っていた」です。

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25年前、コミック(漫画版)を買って、深夜のテレビ(アニメ版)を子供ながらに夢中で見ていました。当時の劇場版「まごころを君に」は母親に連れて行ってもらい。夢中になっていたというより必死で見ていたと思います。
理由は、子供にはまだ理解できない物事や世界が多すぎました。
けれど子供ながらに、あの言葉や台詞や世界観に「必死に夢中」だった。
「必死に夢中」だったというのが適した表現だと思います。

だから今更、新しくなったヱヴァンゲリヲンを観る必要はないと思い込んでいたのです。だから「今作のヱヴァンゲリヲンが本当の最終回ですよ」と説明や告知がされていなければ、正直観ていなかったと思います。
あるいは、今だから、観たいと想う偶然が生まれなかったのかもしれない。
告知を聞いていたとしても、個人的に、今のタイミングでなければ観に行っていなかったと思う。

この「今だから」というのは、とても重要で、とても大切な事なのです。

誤解が無いように、嫌な気分をするファンが生まれないように説明させてもらうと。

自分は「新世紀ヱヴァンゲリヲン」のファンではあるけれど、コアでマニアックなファンでも無ければ、今までの間、グッズも購入もしていない。
考察したり、用語や世界観を深く追求し続けていた、作品やアーティスト(製作者)を支えた熱狂的なファンでは無いのです。


熱狂的に想い続けて、追い駆け続けたファンの方とは全てにおいてに差があると思います。想いの温度差や熱量とは言いたくないけれど、事実、作品に投じた時間や資産は圧倒的に少ない。
ただこの4部作の新劇場版だけを観てファンになって、「カッコいい」「凄い」「楽しい」「面白い」と騒いでいる層には申し訳ないけれど、嫌悪感と中指を立てます。

それは「ヱヴァンゲリヲン」に限らず、いわゆる「にわか」層が嫌いなわけでも無く、その層を受け入れてしまうと、そこに時間や人生を重ね合わせて、想い続けているファンの存在や想いが対比して軽くなる気がしてまうのです。

例えば、僕が一度しか見たことが無い作品について、僕が一度しか見ていない状態で、そのファンと出逢った時、その人の前で感想が言えるのだろうか。
想い続けて生きているファンを前にして、軽々しく感想を語れるのかと考えると、僕は怖くて出来ないのです。


自分の中で、作品への想い出補正がかかっているとはいえ、そこには超えられない壁があると思うのです。

それと同じように、どうしたって超えられない壁や、相容れない想いがファンにはあると思うのです。

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「音楽は自由だ、音楽は音を楽しむものだ」という言葉を土台にして音楽を楽しめる人間や、作品に対して持論を軽々しく展開する人を内心では軽蔑してしまうのです。
そこで大切にしたいのは、その想いと、過程です。


音楽にしろ映画にしろ、どんな作品でも、ファンや観た側、聴いた側の感想がアーティストや作者の意と反することもあるのは仕方が無いし、ファンだとしてもファン同士であっても、人と人では感じ方も考え方も、生き方が違うので、歩き方が違うから。それは仕方がない事だと思う。

けれど。
僕は「人生色々。みんな人生それぞれ色々あって、今ここ。」という言葉を好きで多用するのだけれど、それは、「全てを受け入れて、すべてを理解して何でも許します、何でも良いと思います」では無いのです。

人生色々という言葉があって、でも、その色々あった過程があって今ここに生きて逢えているのだから、お互いに理解し合えるなら理解する努力をするという選択肢もあるし、理解し合えないなら、愛せないなら、それを理由に傷つけ合ったり、(わざわざ)否定するのは良くないと思う。という意図で言葉にしているだけなのです。


音楽にしても、映画や他の作品やジャンルにおいても。
その評価や感想や、その作品が自分にとって、どんな役割になるのか。
自分の人生の中でどんな存在になるのかは、それぞれ違う訳で。

それを否定するか、カッコいいと捉えるか、良いとするか悪いとするかは、それぞれの自由ではあるけれど。
大切なのは、想いと、その過程、その人の人生における熱量なのかなと。

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これから数回、「新世紀エヴァンゲリオン」「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」について僕の想いや今の自分について書き連ねて残しておこうと想っています。

七月の半ば頃まで劇場公開が続くのであれば、きっと、間違いなく僕は見続けていると思います。
見ている場所も変わると思うし、その時どこで何をしながら、何を想い、誰を想いながら観ているのかは今はまだ想像の域を出ることは出来ませんが。

今だから、この新劇場版「シン・ヱヴァンゲリヲン」を観た理由はこれから続くと思います。

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