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繰り返す修正、訂正、改めて再会。

今日のこの日記は、僕の中の気付きと挑戦と変化の日記。

下書きは今の公開した時点では一度目。

・・

老害という言葉があります。
僕もこの言葉をよく使います。

しかし、この言葉は決して「良い言葉」ではありません。
けれど、この社会の中で「老害」と呼ばれている人たちがいます。

それは、どのような人でしょう。

それは僕が思うに、社会の変化や、自分の主張を通すが故に、他人や社会に悪影響を与えている人の事だと思います。

自称でも他称でも構いません。

自分より年上、あるいは自分から見た高齢者の人が、自分が考えている事と違う事をしている人。
または、自分が感じている社会への不平不満を誰かのせいにしたい時。
自分のとって都合のいい反対意見の人が、自分より高齢であった場合に
「老害」
という言葉を使うのだと思います。

逆に。

自分より年下、その人が自分より若い場合。
ボキャブラリーによりますが
「今どきの若い人(者)は」
「クソガキ」
と呼ぶのでしょう。言うのでしょう。

使う言葉は人それぞれです。

それは自分が気に入らない、自分にとって理解できない人。
自分にとって都合が良くない、好ましくない事に対して
「老害」や「餓鬼」という言葉を使ってしまうのだと思います。

・・

また自分の意に反する、自分にとって都合が悪い人、事。

気に入らない物事や対象物と向き合ってしまった時に、人は他人やその人の言動を非難します。揚げ足を取って反論します。
指摘するように非難し、自分の正当性を押し通そうと仕掛けます。

世の中、他人なんて、そんなもんだなと今は思っています。

・・

ここから今日の個人的な話、考え事を少しだけ書きます。

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僕が誰かに対して、日記を書いたところで。
その人が僕と関係がない生活圏にいれば、
僕の言葉は何も意味をなさないのです。

僕が誰か、あるいは本人に向かって言葉や何かしらのメッセージを送ったとして、その人の生きる為の生活圏に僕が居なければ、それは意味をなさないと思いました。

それは、その人にとっては何も影響がない、という事です。
支障が無いという事です。

だから、無視して良いのです。

・・

しかし僕が、

「許さない」
「やっぱり許さない」

と言い、何かのきっかけやタイミングで、悪意に変えた場合。

その矛先を向けてしまうと、それは事件や現実の問題となります。
この物事は、そこからまた動き始めてしまうのです。

こう書くと、脅迫や警告、予告文のように見えてしまうと思いので、気を付けます。

・・

これは日記です。

自分の生きた証として、日頃考えている事、何をしているのかをプライベートな事なので多少のぼかしを入れながら、書いています。

読み手が、僕の文章から何を思うのかは、その人の知識の情報量と語彙力、自身の経験、文章の読解力(理解力)、考察する俯瞰力が影響します。

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ある有名人のファンがSNSで
「この前、妹のライブの映像が出てきて懐かしいかったからみんなに見て欲しい」
と書いて、その芸能人のアイドル時代の動画をSNSでリンクしていました。

そうすると、そのファンの人の事を、有名人(アイドル)の兄と思う人がいると思います。

しかし、その人は兄ではありません。
昔からのファンです。昔を知っている初期のファンなのでしょう。

だから自分の事を、その応援をしている対象の「兄」という言葉で表現し、「懐かしい妹の動画が出てきた」という言葉で発言をしているのです。

しかし、この言葉の部分だけを切り取ってしまうと。
それを知らない人(無関係の他人)は、その人をそのアイドルの兄のように認識、理解(解釈)してしまうのです。

そこからそのファンの人の発言をさかのぼり、その人の言動を知れば、勘違いを改める機会になります。(訂正力が必要)

しかし、それでも気が付かない人もいるでしょう。

そして、その間違った(勘違いした)認識のままで時が過ぎるのです。

そして、その誤解したままの人にとって、どうでもいい(関係があまりない)アイドルの話として、
「そのアイドルには兄がいて、その兄がネット上で自分の妹に付いて発言していた」
という記憶になるのです。

誤解する理由や家庭にはいろいろな要因があるのです。

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最近も僕に連絡をくれる人がいます。

僕に
「疲れた」
「病んでるのかも」
「辛いから話を聞いて」
と連絡をしてくるのは自由です。

ただ、僕がその人をまともに相手するか、しないかも僕の自由です。

認識と判断です。

僕が相手に対して、過去に何かしら応援、何か協力をしていた場合。
僕の力(時間、お金、労力、人間関係)からその何かを受けた人が、そうやって連絡をしてきた時。

僕は
「僕が元気にしてるよ。色々あるけど、頑張ってね」
「何かあったの?」
と聞き返すと思います。

そこで相手が
「それがさ」
「実は○○な事があって」
と続けた場合。

僕が、その人に対して、何か力を割いていると、
※力と言うのは、僕の人生。有限な何かの中から相手に対して尽くしたり与えた、割り振ったという事

その人の言動から、今僕にしてきた言動が、
過去に僕のした事と見合っているのかを考えます。

・・

例えば、
「○○の仕事がしたい」
という話をしてきて、僕がそれに対して何かしらの協力をしていた場合。

その人がその仕事に対して僕の見える所で努力をしていた場合、僕は話を聞くと思います。
また愚痴や、不平や不満があれば、それでも僕は話を聞くと思います。

けれど僕から見て、その人が努力をしていない、何もしていないと認識してしまえば、それに対して僕は何も返さないと思います。

なぜなら、僕が応援なり、何かしら気にかけ、力を割いた(割り振った)のだから、その人が僕の意に反していれば、それ以上僕が何かをする必要が無いからです。

その人も、僕が何かしたところで、その程度にしか捉えていないので僕がまた何か力になっても、同じような事を繰り返すだけだと思います。

その人に対して僕がしてあげた事と、その人がしている事が釣り合っていない(見合っていなければ)僕はその人を、興味の範疇から外します。

興味の範疇については、僕が一年半前に「自分の興味と、自分が影響を与えることが出来る範囲は別」という話に繋がります。

今の僕は自分に関係がない対象物、範囲には極力何もしません。

・・

僕は独り言の録音をしていました。
それは日記のようなものです。

そして、それを自分で繰り返し聴きます。
そこで客観的に
自分の声や、自分が言っている事を自分の耳で聞き、考えるのです。

僕はそれを繰り返す事で、少しづつ俯瞰力が付いたのだと思います。

ただ、独り言を喋って記録をしているだけでは、辿り着かない事があります。

それは深く考え、自分にとって大事なことを選別する力です。

・・

独り言の録音は、ただ思いついたことを話しているだけではありません。

でも、それでは僕のような、常に頭の中が混雑(混乱)している、考え事を繰り返している人間は、考えている事を自分の力にする事が出来ません。

なぜなら、すべてを記憶できることは不可能だからです。
物事は常に動いていきます(繰り返される諸行無常)。

それらをすべて捉えて、何か形にしていく事など絶対に無理なのです。

だから、その中で今の自分の事。
今の自分にとって大切な事。
今の自分がするべき事。
しなければならない事。

その現実だけに向き合い続けるのです。


そうすることで、自分にとって、自分の人生において、
自分が付けなければならない力を付けることが出来るのだと思います。

自分に関係の無い事をするな、ではありません。

今の自分に関わっている事。
自分が影響を与えている与えてしまう事。

それを理解し、その中で重要な事を選び、優先順位をつける。

問題があれば、それを解決する方法や、別の道を探す。
打開策を考える。

そうやって人間は強くなり、生きていくのだと思います。
そうやって僕らは、成長や変化をするのです。


それを無下にしたり、放棄したり、現実から目を背け続けていれば、何も変わりません。何も前に進みません。
ただ停滞したまま時間が過ぎて年老いるだけです。

結果、自分だけが社会から取り残され続けるような形になります。

そこに気が付けば、改める。
これも俯瞰することで出来る訂正する力だと思います。

人間なので多少の間違いや、火傷はあると思いますが。

人間は人間らしく生きていけるのだと僕は考えます。

・・・・・・

僕は今でも瞬間的に感情的になります。
今でもなりますが、それでも僕は変わったと思います。

それはやはり経験や情報量が増えた事で、
選択肢や視野が広がったのだと僕は言いたいです。

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最近、僕は

「あなたは新しい事や、変化に対する摩擦係数が低いから」

と言われました。

それは僕が色々な事に興味や関心を持ち、それを経験しようとする傾向があるから、そのように見えるのだと思います。

けれど、そこには僕の中で反論がありました。

それは、
「その人にとって問題があるなら、気にして、何とかしたい事があるのに、それなのに何故それを解決するような事や物を手にしないのか理解できない」
というのが僕の持論です。

ただ。

それは僕にも当てはまります。

僕は「生き辛い」と言っています。

ならば、その生き辛さを解決、解消するように努力なり、道を選べばいいのです。

けれど、僕は
「いや」
「それは違う(それはしたくない)」
と反論のような言い訳をして、手を付けません。それを実行しません。

もし僕が、変化に対して、抵抗や摩擦係数と言うものが無いのであれば、僕は変わることが出来たと思います。

・・

僕の事は僕にしか理解できません。
だから言えます。

僕は変化することに抵抗が比較的ないタイプだと思います。

比較の対象は僕の知っている、僕の周りです。
僕が過去に出逢ってきた人たちと、比べて、です。

僕も自分がしたくない事、嫌な事には向き合いたくない。
出来れば辛い事からは逃げたいです。

・・

けれど、僕は考えます。

僕は自分で
「幸せになりたい」
と言っている。

ならば、その幸せや、目的がそこにあるのなら。

自分でそれに向かって行動をするしかないのです。

・・

文章は2000文字を超えると読みづらくなるそうなので、今日はここで終えて、僕はコインランドリーに向かいます。

他にもいろいろと考えている事はありますが。

他にも、気になる事や色々と山ほどありますが。

死ぬような、死にたくなるような事はありませんので。

今のところは、皆さんと僕が共存、共生できる世界を望み、僕は生きています。

それでも僕らは生きているのです。

以上


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