なるほどの先 したがき

「私は阿保やけん!」

ここ数年、母がそう叫ぶようになったのは、僕に対して、今まで通用していた嘘や詭弁などの手が通用しなくなったからだ。

少し前の日記に書いたように、母も、自分が今までしてきた事と同じことを自分にされているのだ。

実は、人付き合いが上手な人は、母との関係性と続けられる。
これが本人が言う「私にも友達おるもん!」という奴だ。

でもそれは友達ではない。
友達か友達でないかの論争は本質から外れてしまうので止めるが、何が言いたいかというと、相手にされていないだけ、なのだ。

人間は、その時々で連絡を取ったり取れなかったりする。

大人になれば事情もあるし、タイミングもある。
そして人間は変わる。

だから僕は、うちの母の友人や、親友と呼ばれる人たちを、この数年観察していた。
母親がその人たちの名前を出すたびに毎回忘れたふりをして、どういう人か聞き直す。そして帰ってきた説明と、相手との関係、頻度や会話の内容を記録していた。

解った事は単純で、全員があっさりしている。それだけだ。

純子さんの性格を知っている人は、問題が起きる前に距離を取り離れている。そして、用事がある時だけ連絡を取り合い、上手くやっている。

だから、距離を取られて突っぱねられていると言うより、自然と関わらない事で何も問題すら起きない。

面倒そうな時や、そういう瞬間にパッと離れられているのだ。

正しい人付き合いの仕方だと思う。

だから、母は、自分の家族や大切な存在が出来ないのだ。

愛されない女の不幸な末路は、女だからではなく。
僕も含めて「愛されない人間の不幸な末路」という意味だ。

友達や知り合いなら上手く付き合えるのも母の特徴だと思う。

関係性が薄い場合、母は、本当にお利口さんなのだ。
それは、本人の武器である「普通は」という教科書通りの、大人しい、物分かりのいい女として、堂々と澄ますことは出来るのだ。

空気を読むと言うより、自分が強く出られない場所では何も言わない。
当たり前の事のようだが、その差が激しい人という事だろう。

上の人間と下の人間。

自分の盾となる権力者や有力者の前では媚びを売り、自分が支配できると思った相手には過剰な干渉や持論の押し付ける。
そうやって上にも下にも、共依存関係を仕込むのだ。

だから、この場合で言う、「友達」は関係性が「対等」を維持できているのだ。それは母が凄い訳でも友人という人たちが凄い訳でも無い。
自然と、長い年月をかけて、そのコミュニケーションの仕方が成立できただけなのだ。
だから純子さんは、その人たちとは、今のところは仲良しだと言える関係を続けてこれているのだ。

ただそれは、どこまでいっても他人であり、人生や運命を共同しない他人。
悪い言い方をすれば、どうでもいい関係、でもある。

極論ではないが、別に死んだってかまわない関係性の人間たちとは仲良く出来る。
本人はどう相手を見て考えているかは別として、そういう人間関係は模範解答的な動きさえしていれば支障や問題は起きづらい。

結局、結果的にそういう表向きは、母は上手いのだ。
自分が好む、自分が有利になる立ち回りが出来るのも才能だ。

うまく捌けば、他人だ、そうめんどくさい相手ではない。
こういう奴は普通にいる。

クラスでもいたよなって話だ。

「いたよな、そういう気持ち奴」
「クラスで一人くらいはいるよな、ああいう嫌われ者」
「一人だけ、煩い奴な」

昔、こういう奴いるよなって、高校生くらいの時に思った。



母親の通信簿には、人に対しての事(対人関係)ともう一つ、集中力の無さを指摘されている。

「人に優しくしましょう」

「ボーっとしている時が多く」
そう書かれている。

結局、それが本当の姿なのだ。

家の中では、あの親(爺ちゃんと婆ちゃん)だから通用していたのだ。
親戚も同レベルだ。しかもこれは母の父方母方(爺ちゃん婆ちゃん)両方ではない。母方には強いのだ。

たぶん、爺ちゃんが亡くなった時に気が付いたが、爺ちゃんの一族には、母と同じように気が強い奴が多い。馬鹿が多いけど、いわゆる不良みたいなのが揃ってる。

母と同じ世代は、そういうのが揃ってる。
そういう所に正面から向き合うのが苦手なのだろう。
だから母は父方の親族との接点が少なく、静かだったのだろう。

幼いころの記憶だが、母は、今以上に(今は失っているが)、相手が怒ってくるまでは罵倒や挑発的な講釈を押し付けて攻撃する人だった。
そして相手が逆切れだったとしても怒り出すと、周りの大人や男の人の後ろに悲鳴や「キャッ!」っと言って逃げ隠れる。

そしてまた正論のような講釈を延々をぶつけて、誰かの後ろや陰に隠れている。

そういうのが基本的にある人だ。

だから逆に母方の方とは仲が良い。
自分を尊重してくれて自分の言う通りにもなる。
母は嘘をつくタイプではないが、いくらでも虚言や虚勢も張れて、それが通用したのだろう。

だから、家族に対してや大切な存在に対しての接し方や関わり方、付き合い方みたいなものが、全部欠落しているのだろう。

だから、これは発達障害の問題ではない。

ちなみに母は、優しくない人間ではない。優しい人に見えるだろう。

言い方や評価は色々人によると思うが、人の力になったり、助けたがるのは爺ちゃんも含め、我が家の性質だろう。

ただ、僕や爺ちゃんと違うのは、母は優しさに共依存が含まれている事だ。
仲間意識とはまた違う。依存というなら僕もあると言えばあるけ。

だから依存を僕は悪いものとはしていない。人は必ず何かしらに依存している。だから依存自体を僕は否定していない。
相手を支配する、自分の気に入るように動かして、自分と相手の関係性を、自分は少し上から依存(支配)するのとは違う。

僕や爺ちゃんは、家族意識、仲間意識が強すぎて失敗をする。

けど、何て言うのだろう。なんかモヤモヤする。

僕と母の違い。

これかもしれない。(仮)にしておく。

母のそれは家族意識ではない。
自分を満たす存在、自分を気持ち良くする存在として他人(他者)を利用し、仲良くなるのだ。

誰しも自分の事を評価して気に入ってくれる人と仲良くはしたい。
けれど、自分の存在証明や承認欲求などの欲を満たす為、癖を満たす為に他者との関係や繋がりを形成するのが、母と僕らの違いだ。

意味は理解できるが、僕はそこまで他人を利用したいとは思わない。

そもそも、そういう関係性や仕組みは、いつか限界が来る。
それでは人間関係は成立しないと、僕は経験しているからしないだけだ。

だから「経験」からくる「成長障害」なのだ。

母の通信簿には書かれていた言葉。
人に対して問題があり過ぎる事。
どうして学ぶ機会が無かったのだろうか。

それは簡単だ。

爺ちゃんがそれを喜んで、馬鹿みたいに持ち上げたからだ。

爺ちゃんは自分に学(学歴)が無い事を、何の自慢にもならない事ではあるが、じいちゃんは笑いながら自称、自虐していた。

爺ちゃんは肉体労働が仕事の土建屋。
学歴など関係は無い、時代的も何も恥じる事でもないが、爺ちゃんは爺ちゃんなりに学歴を気にしていた、意識していた。

だから勉強を始めた自分の娘(母)が更に誇らしく、自慢で仕方が無かったのだろう。

気持ちは解からない訳ではないが。
その結果が、化け物を生み出した。

婆ちゃんに関しても似たような事だと思う。
爺ちゃんだけの問題や責任ではないが、やはり夫婦。
家族なのだから、教えるべきだったと思いきや。

違う。

二人共が同レベルなのだ。

全くタイプは逆かもしれないが。知識、知的レベルが同レベルの爺ちゃんと婆ちゃんだった。
問題が起きても爺ちゃんが何とか解決なり責任を負ってきた。
爺ちゃんは、婆ちゃんが起こした問題を解決しても、本人には言わず、ブツブツと文句を言いながら怒っていた。爺ちゃんは家族に優しすぎた。

そして爺ちゃんは、婆ちゃんに物事の説明や説得、理解をさせていない。
何が問題だったのかを、たぶん、二人共が理解できる能力が無かったのだろう。問題解決は、正直、お金や度胸、爺ちゃんで言えば腕っぷしがあれば何とかなる。けど、それでは動物と一緒だと思う。

餌を与えて、餌を取られて。
敵に噛み付いて、噛み付かれたら噛み付き返して。
怪我をしたら治るのを待って、怪我が重症化したら自然と死ぬ。

言葉で説明や説得が出来ないのは、人間として能力が無いからだ。

言語化? なんていうの、こういうの。
人にモノを正しく説明する能力。

それを聞く側の力も必要だ。
だから、そもそも、我が家はこういう家なのだろう。

この二人は何も学びが無く、爺ちゃんはそういう人で、婆ちゃんもそういう人だった。
爺ちゃんは無事に亡くなり、残された婆ちゃんは我が儘なままで認知症になり、この有様。

母も僕も、この家の最後の時を過ごしている。

僕はそこと似ているのか、解らないけどね。

少し前に僕を利用していた奴は、僕の事をそういう風には見ないだろう。
そう思うと、人間は見え方見方に左右するなと思う。
そして、本当に人間は勝手な生き物だ。

未だに阿呆の親と怨む娘。

そして僕も、このままいけば同じ道を辿る。間違いない。

これは簡単なあらすじだけでも納得がいく答えになる。



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