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新劇場版 シン・ヱヴァンゲリヲン 最終日

シン・ヱヴァンゲリヲンを最終日のドルビーシネマで観ることにした。
決めた。

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この画像は公式のファングッズの中の一つ。僕は好き。

レディオヱヴァの画像で、サンプルって文字が入ってしまったけど。
二人だけが綺麗に切り取られてる画像。

アスカが普通に子供らしく普通の世界で人生を歩んでいたら。

そんな夢みたいな想像に辿り着いてしまうと僕は悲しく想う。
でもそれが僕らの日常だとも思う。

この二人の組み合わせ、赤の海が背景で。
まだ海は赤いのです。青い海ではないのです

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この二人は、こんな二人の未来を想像していたんだろうな、と想っている。どこかで、想像したり、夢見たりしてても良かったんだよなって。

劇中、アスカがシンジに対して「先に大人になっちゃった」というシーンがある。「子供に必要なのは恋人ではなくて母親」「当時、シンジの事が好きだったんだと思う」この台詞は切ない。

この台詞をアスカが言うとはいえ。
まだ14歳の呪縛を抱えていたアスカが言うのが切ない。

僕の中では、よく描かれる眼帯の無いアスカ、オリジナルのアスカは、綾波も含めて、もう既に死んでいるような感覚に僕はなっている。

「この二人は、もう死んでるんだよな」って。

今作の新劇場版のシン・ヱヴァンゲリヲンに出てくる二人は、僕の知ってる想い描いて記憶にあるアスカでもレイでも無いんだよな。
「あの二人じゃないんだよな」って。

どこまでいっても、「だって、あの二人はもう死んでるんだ」って所に気持ちが向かってしまうのです。

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このシンジとアスカの二人の姿は、作中では絶対にありえない二人の姿。

だから、こんな二人の姿が観たかったファンもいるのではないかな。

誰と誰が一緒になるとかそういう話だけではなくて、
楽しそうな二人の こういう姿や風景が、二人の日常があって欲しかったなと。時々、ちょっとだけ真剣に思うのです。

アスカとシンジの、この青春チックな二人の姿。
二人の普通の世界を生きる姿を見てみたかったな、と。
アスカにはそういう人生があって欲しかったなと思いたいのです。

こんな日々を、こんな二人を。
自分にも重ねて、想い描いていたファンや人たちは少なからずいたのではないだろうか、な。

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最終的には、(「イスカリオテのマリア君」と最後に呼ばれるシーンがあります)マリとシンジで現実世界で生きていくような描写で終わるのだけど。

けどマリは、碇ユイが好きだった。

その碇ユイが守ろうとした息子のシンジを、「碇シンジを守るべき存在」として、シンジを愛して(支えて)いたのではないかなと思ったりもするのです。

そこで折り合いを付けると 最後の二人(シンジとマリ)のシーンも僕は、個人的には、納得するのです。

「良い匂い」と言うのは、碇シンジから、碇ユイの匂いを感じ取っていたのかな、って。

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「イスカリオテの」

マリが何を裏切ったのか自分には考察できないのだけど。
(これだけ最後に観て、感想を書いておいて考察できませんでは能無しです、すみません)

想う事は考える事はいっぱいありすぎて。
言葉にしていくのが僕の人生でも役目でもないので。

そこはファンの皆様に任せます。

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僕は、最後、マリが好きになった。

綾波レイでも、アスカでもなく。

碇シンジの人生や、一生のパートナーとして、生涯、愛するものとして。
二人の想いが続けば良いなと思います。

どこまでいっても僕は綾波レイに憧れるし、アスカを可愛いと見えてしまう時はどうしてもあるし。最後はマリが好きなのだと思う。


碇シンジの気持ちも成長も解るけど。
僕は碇ゲンドウの気持ちの方が、今は共感するのです。

「愛する者(碇ユイ)と会いたいが為に。世界を人類を巻き込んででも」と。その気持ちや衝動に僕は共感してしまうのです。

劇中のゲンドウの語り。

「孤独が好きだった」から始まる、
「音楽が」「イヤホンが外界から自分を守ってくれた」という流れ。

そして、ユイと出逢う事で人生が変わり、ユイを失う事で孤独や不安を覚え、息子の碇シンジ対しても不安や恐怖を感じるようになる。


息子(シンジ)と、どう接して(向き合えば)良いのか解らなかった。

親の愛情を知らない自分が親になる。

世の中というのは理不尽なものだ。
(そんな言葉、そんな感じの台詞あったよね?)

息子(子供)の存在が 自分への贖罪(戒め)だった。

ユイを再構成するためのマテリアルとしてシンジが必要かどうか、、と。


「ユイ、ユイ、ユイ!」と。「ここいるのはレイか!?」と、ユイを連呼し続ける。叫び呼び続けるゲンドウの姿や気持ちや葛藤に僕は共感してしまうのです。

それは当時、社会現象になったヱヴァンゲリヲンの放送時の、庵野監督の置かれていた状況や自身の状態も映していたのだと勝手に思う。


世間を恐れ、世の中や、世界(社会)に対して。
弱い自分。その自分に対してのメッセージや視線、現実、人の声。
また、そこに立ち向かう気持ち。
牙を向こうとする気持ちも分かるけど、またそこに相反する自分の弱さがあって壊れていく。崩れていく気持ち。

「弱さ故に私は 」と続いていくゲンドウの台詞は、その庵野監督の言葉だったのかなと 想像したりしています。

またその台詞に自分を重ねたり、今の自分(僕)は、その弱さ故に今の答え、現実になってしまっているのだと。想い重ねるのです

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部屋の整理をしている。
断捨離のつもりでいるけれど。
正直何も整理も捨てる事も出来ていないと思う。

ヱヴァンゲリヲンの終劇は、ナンバーワン、オンリーワン、ベストの環境で。感情移入や没頭没入したい。 するべきだと自分では思う。

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25年間、エヴァンゲリオンと共に生きた人たち。
ヱヴァンゲリヲンの世界、世界観。主人公たち、全員。
庵野監督やスタッフ。声優さんの気持ち。
庵野監督からのメッセージを共に生きたファンはどう受け取るのだろうか。

「どんな人生でも、どんな世界でも、僕らは生きていこう」

「いろんな事があって、今もその中、渦中にいるのだけど。

それでも生きていこう。

人生色々あるけれど。それでも僕らは生きていかなければいけない。

主人公たち、彼や彼女たちは。

登場人物たちは、碇ゲンドウも碇ユイも。
アスカもレイも。カオルもマリも、ミサトもリツコも。
その長い人生を、長い長い時間を生きたよ。」

と。

そして次の世界に、次の舞台に飛び立って行った。
ループするように繰り返されていた世界から抜け出して、
彼ら、彼女たちも次に向いて生きていったよ。と。

だから僕らも、生きていこう。

という解釈をして僕は最後の最後まで新劇場版シン・ヱヴァンゲリヲンを観ていたい。いつまでもヱヴァンゲリヲンを忘れたくない。

書きたい事は尽きない。一言でも、一行でも、ひとつでは纏まらない。
書き切れないし 語り続けるのだと思う。

僕らが生きていく世界はまだ終わらない。


ロックンロールは鳴り止まない ではないけれど、ロックは終わらない。

人生は、生きる事は、幸せになる為に生きる その理由はまだ終わらない。

だからだから。物語は終わらない。



大切な人 大切な想い出 大切にしてくれた人 

大人になるという事 大人になる  ツライ

眠れない 眠らない

かなしい 悲しい 切ない 苦しい

不安 不安定 どこまでも 孤独 

生き辛い 生き辛さ 演じて 

明日以降に続く。

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