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自分の中の整理をするために書いている。
頭の中にあるのか心の中にあるのか、スッキリする時がない。
問題や課題なんて誰しもが抱えているのに。
僕の中に蠢いている「不安」は解決する未来が一向に見えてこない。

腑に落ちない訳ではないけれど。
僕の中にある「不安」の矛先が治まらないのだ。

人生、世の中は教科書通りにはいかない。
「所詮は人間」「所詮は他人」と切り捨てても、理不尽な話や、不義理な人間はいて、お互いの利益や欲の為に争ったり喰い合ったりしている。
だから生きるって事はそんなに容易くもない。ドラマのようにはいかないし、とは言っても「現実は小説よりも奇なり」。
例え僕らの中の誰かが消えてしまっても、社会から見れば小さな一石。
そんな事はそこまで大きな問題でもなければ、逆に誰かの命が一石が、世界を変えたり、誰かを救うような事にはならないと思う。だから消えることが最善だとは今の僕は思わない。

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きっとこの感情や、考えや悩みを抱えているのはいつの時代も同じだったような気もする。100年前も同じようなものだったと思っている。

人間の変化や、文化文明の変化で、確かに僕らの生活は変わったと思う。
とはいえ人間のそのそれ。基本的な部分は変わらないと強く思う。
人間が変わるというより、生活が変わって、生き方も変わっていけば。
自ずと考え方や価値観、人生観は変わってくるのだと思う。
でも、そこに正解は無いのだ。模範解答や安全な安牌を狙うから苦しくなったり、世界が狭くなるのだと思う。

僕はいつか「生きていて良かった」と素直に言える時が来るのだろうか。
人間は大人になるにつれ、社会の中で軋轢、擦れ違いながらも、鈍感になる感性もあるけれど、傷ついた心や傷跡は一生とは言わないけど、癒える事はそう無いのだと思う。

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生きていれば良いこともあれば悪い事もあるだろうし。その割合や可能性は人それぞれだけれど。人生が楽に、イージーモードで生きていけるような人生や世界(社会)は無いと思っている。

「教科書通りにはいかない」というのは、学校や親が僕らに教えてきた価値観や、生き方。物心つく頃、社会に出る前に刻み込まれた最善に無難に生きる方法とやらは綺麗ごと偽善ばかりだ。

悲しくなるばかり。
自分を悲劇のヒロインぶりたくないけれど。

自分の人生に対して、都合よく、未来に対して。
変に期待してしまった僕は大きく転んで落ちただけ。それだけだ。
幸せには遠い。

人生は博打みたいなところがある。さらに人生には「まさか」がある。
予想だにしていない、思いもしない事で人生は大きく分岐する。
それは他人には判らない。何があったかなんて自分以外には解からないし、自分でも解らない事ばかりで立ち止まったり、落ち込んでしまったりする。

それに蓋を開けてみても本当の真実みたいなものは、誰にも解からない。
結果的に答えはそれぞれの中で、真実は闇の中に落ち着くしかないのだ。

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人を殺して大金を得た者、人を騙して裏切って成果を手にした者。
でも何かを手に入れたかったら犠牲やリスクは必ず付きまとう。
偶然、何も知らず、考えず、苦労もせずに。
天からチャンスや、そのそれを掴んだ者もいるだろう。
そんな事、教科書や親や知っていても教えてはくれない。
もしかしたら自分の親が犯罪者だったり、そのそれなりにやる事はやっていたりする。あとは度合いの問題だけかもしれない。

「火遊びは程々に」というけど、行き着く先は地獄だとしても、まだまだ遊び足りないと思ってるのも隠せない僕の事実だ。

学校を卒業して、普通に、真面目に、コツコツと仕事や生活をして。
それは間違いがない(失敗が少ない)道かも知れないけど。
僕からすれば面白くない人生だと僕は思い込んで切り捨てた。

僕にとっての初期衝動は想い込む力だ。
理想を語っているつもりはないが、夢を語り、夢を見過ぎた。
悪夢とは言いたくないが、白昼夢だった。
今もまだそこに居るのかもしれない。きっとまだそこに居るのだろう。

確かに普通や無難に、親の言う通りや、世間、周りを気にして、予防線を常に張りながら生きる事は正しい気はする。
誰だって怪我はしたくない。
本望で好き好んで茨道を選ぶ必要はないと思う。

だから何か大きな間違いや、問題が起きた時に僕らの真価が問われる。
僕は去年に死(自殺)にかけたのだから、僕は間違っていたのだ。
それを己の正義、正解としてしまったら、僕はこれからも生きていけないと思う。

昔を懐かしく想ったり記憶を美化するのは人間だから仕方がないと思う。
でもこの感覚や意識が無くなってしまう気になってしまうのは辛い。

ヒリヒリと痛む心や、ソワソワして落ち着かない、居ても立っても居られない。そんな不安や怒りや憤り、そんな気持ちから解放されたいと思っているけど。

何も叶わず、夢も希望も未来も暗く閉ざしたまま、息苦しいこの閉塞感や、不安ばかりが付きまとう毎日からはサヨナラしたい。
でも、この危うさや不安な感覚を忘れたくない自分も確かにいた。
忘れられないのではなくて、忘れるタイミングを逃しただけかもしれない。


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そりゃ言いたい事や書きたい事はある。
話をしたくても連絡がつかなければ話は出来ない。
キャッチボールがしたくても、そこに君が居なければ出来ないのだ。
そこに僕がいなければ僕には会えない。

群像する僕らの人生の色々。僕らには多面性がある。
だから見え方(味方)の問題なのだ。

多様性を謳うようになった今でも、僕らの「生き死に」に対して絶対の解答は存在しない。「これなら間違いない」「問題はない」と言えるような決まり文句は存在しないはずだった。

僕は「優しい世界」を希望、期待する。それは「優しい僕らの世界」だ。

だから本当はあるのだ。事実、現実社会で生きていると、ある程度のルールや法則がある。だから先人の言葉には重みが付加されるのだと思う。

人間、人類はそうは死んだり滅亡しない。
どの道を辿ってもあと100年、僕らは死なない。

「そんなもんだ」

「蓋を開けてみないと解からない」
「真実は解からない。それだって、それぞれの見方次第。立場が違えば感想も違うから。だから蓋を開けたところで全員が満足や納得する答えは解かりやしないよ」

人間の生き方、生き様に「絶対の正解」は無いのだ。
それに人間は解かり合えない。
でも棲み分ける事で、争いを回避させたり、失敗やその先にある絶望に対して分かち合う事は出来るのだ。

だから「共依存ではなく、共存する世界」を僕は望んでいる。

僕が語りたくても語れない語らない僕の話は、いつか僕の想いや希望が叶った時に語ればいいと思っている。

善悪、己の正義は、ルール、基準にする線引き次第でそれぞれだ。

僕のワガママと敗因、原因(理由)は「共存を望む」と言いながら、僕自身がまだ折り合いのつく、現実的な着地点を見出せていないからだ。

僕は君と生きていたい。
僕らはまだまだ君と生きていたい。

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