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人間は、動物なのだ。

 私が住んでいるシェアハウスには、様々な方がいる。私は皆さんのことを知りたいと思い、声を掛けるようになった。上記の行動は、「どういう方々なのかな~」という疑問を持った私の動物本能によるものである。

 しかし、私を含めた複数人で会話を行った際に、ネガティブな発言を私の体感で必要な時間量以上になさるなと思う方(ここからその方のことを「A」と書く。)がいた。会話は、ポジティブな発言すればポジティブな内容の会話の割合がより高くなり、反対にネガティブにするとネガティブな内容の会話の割合が高くなると、経験則から私は考えている。

 一次関数で説明をすると
y (会話のアウトプット) =a (会話の色(ポジティブ・ネガティブなど)) x (人間が本来持つ会話の流れ) + b (当人たちの会話のスキル)
であると私は考えていたため、要はAに対し、「上記の式のaが-になっているから+にしていただけませんか?」というシンプルなお願いを私としては行ったつもりだった。

 しかし、A の回答は、私の予期せぬものだった。
まだは相手のことを考えられていない。
図星過ぎて、まさにアニメでいう目が飛び出る状態だった。皆さん、ご覧になってください、上記の式を。周囲の感情が入っておりません

 Aは、周囲の感情を読み取る力に優れているのだと私は考えた。コミュニケーションを楽しむ=会話内容を充実させる だと私は思っていた。しかし、これは=ではないのだとAに気が付かせてもらった。

 先日、私は非常にネガティブな気持ちに苛まれ、感情のコントロールができない状態になった。ネガティブな出来事が発生したためだ。私はどうしてもひとりでいる気持ちになれず、ひとりで共用スペースにいた。誰かと話したかったのだが(会話をすると心が慰められるため。)、皆さん黙々と作業されていたため会話をすることができなかった。この感情をどうしようと考えあぐねていた。しかし、共用スペースに滞在し、1時間ほど経過した段階で、なんと負の感情が少しずつ消えていった。これは、恐らく一緒にいるだけで慰められたのだと思う。

 Aと私が話をしている際に、目の前で複数の方々が映像を見ていた。話されている方もいれば、話されていない方もいた。私は「なぜあそこで何もせず時間を過ごしているのか分からない。」と言った。すると、Aは「あの場を楽しんでいるんだよ。」と言った。目的を定め、それを達成するためだけに行動を行うというスタイルを主としていた私には理解ができない行動だと思った。しかし、この共用スペースにいただけで慰められたという経験を通じ、私は人間には「その場を楽しむ」という動物本能があると知った。その場で、誰かと一緒にいること自体が、人間の心を和らげるのだ。まさに動物だ。人間という動物は、集団生活を前提にプログラムされている。したがい、「誰かといる」ということは、人間の感情をポジティブな方向に動かすようになっているのだと私は考える。

 この経験を通じて、私は「その場の雰囲気を良くする」★ために努力を行うことにした。この点にコミットするために行う私の行動は下記である。
(1) ニコニコする。
 全力で表情をポジティブにすることは、★という目的を達成するために、最も重要なことである、と考えている。人間は共感をするので「私はポジティブである。」という感情を示すと、それが相手へ伝播する。
(2) 周囲の感情へ配慮する。
 基本的に話は聞くものと強く認識する。誰かきっと話したいことがあるはずであり、相手の話を引き出すことを前提に話を進める。私の意見はここ(note)で発言しよう。
(3) 場を荒げない、というか、何もしない。
 自分から何か自発的に行動を行う必要はない。何かが自然発生的に生まれるのを、"待つ"という姿勢が重要である。

 ★は、私の人生に無いものであり、難易度が高いように思っていたが、★という目的に対して恐らくコミットできている方々の行動を拝見すると、上記の通り"私にも行動可能な範囲"であると見受ける。意外に簡単だと思う

 この簡単な所作を見落としているだけで、人生を損している方は多いと私は思う。私は、仕事に20-30代を捧げ、40代になり「相手に好かれるためには努力が必要である。」ということを忘れてしまっている方々に今まで何名もお会いしてきた。例えば、特に管理職歴が長いと、自然と部下から丁寧に扱われる・気を使われる・自分の方が正しくて当たり前(より所有する情報が時間の経過と共に増えるため発言の正解率は高まる可能性がある。) という状況に置かれる時間が長くなる。「周囲の人間は仕事だから愛想を良くしている。」という土壌の上に常に置かれ、その土壌が無い場合(仕事以外)での人間関係がうまくいかなくなってしまうケースは多く存在すると考える。本人に悪気が無く、環境がそうさせてしまっているケースも多いように思う。

 しかし、何も無いただの生身の人間が、他者からお時間を頂戴することは ありとあらゆる面白いコンテンツが存在する現代においては、シンプルに考えるとそれなりの難易度があるので、努力が必要である。「いや、そこまで他者と関わる必要は無いのでは?」と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、人間は孤独に耐えられないのだ。この事実は強く認識しておくべきだと私は考えている。孤独を感じていない方は、そもそも何も考えなくても周囲にたくさん人がいて、うまくやられているのだ。少なくとも、私は自分の寂しさを埋めるために、周囲に好かれる努力をしなければいけない。毎日食事を行うことと同様の重要度で、寂しさを埋めることに対し、私は真剣に取り組まなければいけないと覚悟を決めた。

 私に上記の覚悟を決めさせてくれた要因は、纏めると下記である。
① 周囲を見渡しうまく"孤独"を処理できていない方々を散見すること。
② 自分が孤独を感じていること。
③ 下記の動画に共感したこと。私のこれからの人生には、友人が必要不可欠である。

 あとは、(1)(2)(3)を実行するのみ。 

 ところでなのだが、私は上記の通り、その場を楽しむことを最近知った。私は実は大人数での飲み会が大っ嫌いであるのだが、私の頭のなかには「なぜ飲みに行こうと、誘ってくるのか?」という非常に大きな不思議さんが常に存在した。私はこの不思議を解消したく、いろいろな方にこの質問を投げかけていたのだが(自分でもしつこいことは認識していたのだが、どうしても知りたかった。)、その場の雰囲気を皆さん楽しまれていたのだなと理解した。これは私にとって非常に大きな気付きだった。その場の雰囲気を楽しみ、孤独を埋められていたのだと思う。こう理解することで、大人数での飲み会で、大げさな表現方法を取られたり、自分はそう思っていないにも関わらず相手に合わせて自分の意見を曲げて発言したり、なんならカラオケなど相手の感情に直接訴えかける場所に行く理由がわかった。

 ・・・というわけで、私はこれからも飲み会に参加する・・・のか?

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