面白い記事を読みましてね。
なるほど、子供にとって大事なのは、「子供が不安を感じて寄り添った時に受け入れがあるかないか」なんですね。これは極論すれば、「愛情はなくてもいい」ってことですし、翻って「愛情はあっても受け入れをできないなら必要な機能を果たせない」ってことなんですね。
この認知が「優しい」なあと僕が思うのは、「親は子供を愛すべし」という規範にとらわれ、「私は子供を愛せていないのではないか」みたいな苦しみを生み出す心から人を解放するだろうと想像するからです。子育てにとって大事なのは、「子を愛せねばならない」ということではないんです。
じゃあ、「子供が寄り添った時に受け入れられるかどうか」は、どうやって決まるのか。これが「愛情の有無」によらないとするならば、他の条件によるってことですね。端的にいえば「経済力や時間や体力の余裕」によるってことです。わかる気がするなあと。お金や時間や体力がなくてカリカリしている時に、子供が寄り添ってきたときに相手できるか、っていうと、難しいわけです。でもお金や時間や体力に余裕があると、「おー、どうしたどうした」と相手してやれるわけですね。これが子育てに必要な親の機能であると。
この認知は、子育ては親でないとできないみたいな偏見から人々を自由にし、公的再配分の根拠となるだろうと想像します。