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中にいるのは、人だ。

「おい、ピーチ!」
自動車学校に通っていた頃、私のことを、ピーチと呼ぶ教官がいた。
桃子だから、ピーチ。安直なニックネームである。

「ピーチ」と呼ばれること自体は、別に嫌ではなかった。
しかし、歳若く、整った容姿のその教官が、若干調子に乗っている感じは鼻につく。

「ピーチ、運転下手だな。」
教官は、ニヤニヤしながら、ズケズケ言う。

調子に乗ったイケメンは、実に面倒くさい。
イケメンだから、ちょっと口が悪くても許されると思ってやがる。
だがな、デリカシーのない男なんて、真のイケメンとは言えないんだぞ。

「ペーパーテストも、適正検査の結果も悪くないのになぁ。なんでこんな下手くそなんだ。」
教官は、手元のカードを見つつ、思ったことをそのまま口に出す。

「前に教習所の中で運転していたときは、こんなに酷くなかったよなぁ。」

その日は、仮免をとったばかりの、路上での運転だった。

車通りの少ないところで駐車すると、教官は少し真面目な顔で尋ねる。

「ピーチ、運転するの怖いだろ?」

図星だった。
高速で動く鉄の塊は、操縦する人間が少しでも判断をミスすれば、だれかの命を簡単に奪ってしまう。
私は、運転するのが怖くてたまらなかった。

「少しも怖くないとしたら、それはそれで危ない。だから、怖いと思うこと自体は悪くない。だけど、ピーチ。怖がりすぎだ。向こうから車が来るから、ちょっと見てみろ。」

教官が指差す方向を、私は見る。

「ちゃんと、見たか。」
「はい。」

「何色の車だった?」
「白でした」

「どんな人が乗っていた?」

私は答えられなかった。

「爺さんだったよ」と教官はポツリと答える。

「いいか、ピーチ。車の中にいるのは、人だ。車が勝手に猛スピードで動いているわけじゃない。

交差点に止まっている車があると、こちらが優先道路だから、スピードを落とさなくていいときも、スピードを落としてしまう。それは、相手を信用していないからだ。急に飛び出してくるかもしれないと怯えているからだ。

でも、ちゃんとアイコンタクトをとれば、相手が突っ込んでくることはまずない。もっと人間を信用しろ。」

それから、もう一度車を運転した。

何度も交差点を通り過ぎた。

距離があっても、ちゃんと車に乗っている人の顔が見えた。

それまで、全然人の顔を見ていなかったことに気づく。

運転する怖さが消えたわけではなかったが、いつのまにか肩のあたりの強張りがなくなっていた。

「ピーチも、やればできるじゃないか」
助手席で教官は満足そうに言う。

「まぁ、俺のアドバイスのおかげだけどな」
という余計な一言がなければ、私の記憶の中の教官はもう少しイケメンだったかもしれない。


今は、車を使わない生活をしているから、運転するのは実家に帰ったときくらい。

だけど、ときどき教官に言われた言葉を思い出す。

たとえば、SNSを眺めているとき。

ときに、そこでは、心無い言葉が飛び交っていることもある。

インターネット上では、車を運転しているときと違って、中にいる人が見えないことが多い。

しかし、表情の変わらぬアイコンで話しているその人も、画面の向こうでは、苦心して言葉を発し、反応を受け止めている一人の人間だ。

面と向かって、その言葉を人に言えるだろうか。
「中にいるのは、人だ」ということを忘れていやしないだろうか。
とナイフのような言葉たちを見ながら思う。

かくいう私自身も、たとえば、いいねの数を気にするとき、数ばかりをみて、一喜一憂している。
いいねの裏には、血の通った一人ひとりの人間がいるんだということを忘れてしまっているのだ。

免許を取得したのはもう何年も前のことだから、教官の顔はもう薄ぼんやりとしか覚えていない。

けれど、今も「中にいるのは、人だ」ということを忘れそうになったとき、「おい、ピーチ!」と叱る声が、どこからか聞こえるような気がする。



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