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映画『幸福なラザロ』感想~人を疑うことに慣れすぎた大人たちへ~

 映画の宣伝文句には「圧倒的な幸福感」とあったが、この映画を、「幸福感」という言葉では捉えられないように感じた。ときどき映画を見終わってから、現実世界に戻ってくるまでに時間がかかることがあるが、この映画も、見終わってからしばらくぼうっとしてしまった。(以下ネタバレあり)
 
 物語は、イタリアの山岳地帯のある小さな村から始まる。小さな家に、何十人もの人々が共同で暮らすが、一つの電球を使いまわさなければならないほどに貧しい。たが、彼らはさんさんと降り注ぐ太陽の光を浴びて、農作業をする情景は牧歌的で、美しい。その中でも、ひときわ美しい人物が主人公ラザロである。ラザロは、いつも人々から仕事を頼まれるが、嫌な顔一つせず淡々と仕事をこなしている。貧しい中でも、生き生きと暮らす、戦前か戦後直後のイタリア農村部の物語だろうか、と見当をつける。
ところが、彼らを小作人として抱える侯爵夫人らが画面に映り始めると、時代設定に疑問が生じ始める。ジーンズに革ジャン、ウォークマンや携帯電話…これらは、1980年代から90年代だろうか。いや、その時代のイタリアの農村部では小作人制度が続いていたのか。どういうことだろうと疑問が残りながらも物語は進む。
 侯爵夫人の息子タンクレディは、彼に臆せず話しかけるラザロに好意を抱き始め、ラザロたちから搾取し続ける母に反抗しようと、自身の誘拐事件を企てる。タンクレディは、ラザロに食べ物をもってきてもらいながら、身を隠し、母に身代金を請求する。ところが、ラザロが、雨に打たれて熱を出し、崖から転落してしまうと、食べ物に困ったタンクレディは、警察に助けを呼んでくれと携帯電話で伝える。ヘリコプターでの捜索が始まり、真相が明らかになる。侯爵夫人は、住人たちに小作人制度の廃止を知らせず、村の人々を搾取し続けていたのであった。村人たちは、警察に連れられて村を離れる。
 崖から落ちたラザロは目覚め、タンクレディを探して街へと出る。ラザロが眠っている間、何十年もの時が経過していた。
 

 すごくシニカルな物語だと思った。
 ラザロたちが暮らしていた村は、外の世界から隔絶された貧しい村。けれども、そこは、陽の光が降り注ぎ、風がそよぎ、緑が萌え、月の下で音楽を奏で、太陽の下でワインを飲む人々が暮らす牧歌的世界である。ところが、侯爵夫人から解放されたはずの彼らは、どこまでも続く線路のそばに暮らしているのに、どこへ行くこともできない。雪が降りつもり、灰色の建物が立ち並ぶ冷たい世界。ごみを漁って、雑草を食べて、人を騙して生きなければならない過酷な生活。騙されていた彼らが、人を騙して生きている。
彼らを侯爵夫人から救うはずだったタンクレディの行為は、逆に彼らを天国から地獄へと引きずりおろしたようにも思えてしまう。
 タンクレディは、きっと自身の誘拐事件を企てたときは、本気で彼らを救おうとしていたのだと思う。狼も出没する場所で寝泊まりし、食べ物が尽きても、その誘拐事件を続けようとした。けれど、彼には子供じみた甘さがあった。彼は、誘拐事件を実行している間、ヒロイズムに駆られているが、自らを物語の騎士に例え、パチンコを武器だといってラザロに渡しているのは、どこか「ごっこ遊び」をしているような子供っぽさがあるし、彼の行為はどこか金持ちの暇つぶし、ちょっとした気まぐれにも見えてしまう。
 タンクレディは、完全な正義にも悪にもなりきれない。タンクレディは、侯爵夫人と同じ搾取する側にいるが、侯爵夫人に対して、真実がばれるのが「怖くはないのか」と尋ねる。侯爵夫人は、小作人たちは真実を知らない方が幸せで、夫人は小作人を搾取し、小作人はラザロをこき使って搾取しているのだという。それが世の摂理だと言わんばかり。だが、タンクレディは、ラザロは誰からも搾取していないと反論する。タンクレディは、搾取する側にいながらも、搾取しつづけることに疑問を感じている。だが、良心を多少なりとも抱くタンクレディのほうが、良心を持たない侯爵夫人より思い悩んでいるようである。
 侯爵夫人は、村の子どもたちに聖書を読んで聞かせる。明らかに村人たちを搾取し、悪の側にいる者が善を教えているという皮肉。彼女は、知識を求めすぎてはいけないと説くが、彼女なりの「善意」に従っていたのかもしれない。
 そして、実際のところ、侯爵夫人のいうとおりになってしまった。真実を知らずにいたほうが、彼らはあの村で幸せに暮らせたのかもしれないのだから。教育をうけることができたピッポは、文字が読めるが、彼は文字が読めることで何を得ただろうか。
 けれども、小作人だった彼らもまた、完全なる善人とも言えない。侯爵夫人のいうように、彼らはラザロを搾取していた。街へと降りてきて、働くこともできたが、ラザロを使って楽をすることを知ってしまっていた彼らは、地道に働くことを自ら放棄したのかもしれない。だとすれば、自業自得といえなくもない。
 また、小作人を侯爵夫人とともに搾取していた二コラは、数十年経っても、相変わらず弱い立場の人々から搾取し続ける。搾取する対象を村人から、移民に変えただけ。一つの事件が明るみに出たからといって、悪事が根絶するわけではないのだ。
 そんな彼らとは対照的に、ラザロは、誰も恨まず、誰も疑わない、聖人のような存在として描かれる。彼は、あまりにも純粋で無知だ。ラザロは、無垢なまま、タンクレディを兄弟と呼ぶ。タンクレディは、誘拐事件を起こしている間は、本気でラザロらを救おうとしたのかもしれないが、それはとうに昔のこと。大人になったタンクレディは、ラザロらの生活を見て何を思ったのか。食事に誘ったのは、善意か、悪意か。真相はわからない。
でも、人を疑うことを知らないラザロは、タンクレディ―を救おうと銀行におしかける。人を疑うこと知らないラザロは、人を疑うことに慣れすぎた大人たちに迫害される。
 ラザロは眠りから覚めない方が幸せだっただろうか。今、私たちの目の前にラザロのような聖人が現れたら、私たちは銀行での大人たちのように迫害してしまうのだろうか。こんなラザロのような善人がいるわけがないと思う一方で、ラザロのような人間が生きていけないこの世界を悲しく思った。美しくも醜いこの世界を、澄んだ目をもつラザロはどのように見ていたのだろう。

 この映画は、聖書の物語、もしくは浦島太郎や『星の王子様』のようでもある寓話的物語だ。特殊なフィルムを使って撮影されていることで、新しいのに古さがあって、時代設定をぼやかすと同時に、その寓話的物語がいつの時代にも起こりうるものにも感じられる。


~おまけ~

ラザロが生きられない世界が悲しすぎたので、ラザロが生きられる世界を勝手に想像してみた。時間があったら、絵を描きたい。

1 カフェで働くラザロ
 木漏れ日の降り注ぐテラスのあるカフェで、天使のようなラザロがコーヒー淹れてくれたらみんな癒されると思う。

2 音楽を連れてきて、タンクレディとコンサートをするラザロ
 コンサートの間、ラザロは座ってにこにこしているだけ。タンクレディの中の人の歌がかっこいいので。