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わたしの街になっていく

夏のあいだ、西へと向かう帰り道を運転していると、夕陽を背にする山が見えた。

それは、私の見慣れた山の高さよりも遥かに高い。
夕映えの稜線はうつくしいと思うが、その見慣れぬ高さに、故郷から遠く離れた街にいるのだということを実感させられる。

山の高さなんて、故郷にいるときには意識することなどなかったのに。

離れてみると、生まれ育った街の景色にどれほど愛着を持っていたのかわかる。

蛙や虫がうるさいほど鳴く田んぼ。木と土の匂い。何度も愛犬と駆け上がった土手。そこから見える近くの小さな山と、遠くに見える大きな山。悠々と流れる川。小さな頃たくさん遊んだ、今は遊具のなくなってしまった公園。

目を閉じればいつでも思い出せるその場所が、私を私たるものに形作った。私は、たしかにその地に根ざしていたのだ。


だから、帰り道に見慣れぬ山を目にするたび、自分が根無草になったような、心許ない気持ちになっていた。

仕事が忙しくて帰りが遅くなり、山が夕闇の中に隠れてしまうと、私は少し安堵した。


そんなセンチメンタルモードに突入していた夏のある日、この街で育ち、この街に暮らす友人と会った。

同じ研究室で学び、同じ街へ留学したM君が、私の今住む街に暮らしている。

M君については、前に記事にしたことがあるから詳しくは書かないが、奥ゆかしく、可憐でありながら、ときどきおいおいとツッコまずにはいられない、愉快な子である。

M君と会った日、ただ小一時間たわいもない話をしただけなのに、その帰り道、ふわりと心が軽くなっていた。

考えてみると、友達と会って話すのは数ヶ月ぶりだった。

新生活が始まってから、私は仕事と家事を両立させることで精一杯で、誰とも会う余裕がなかった。

いや、それだけが理由ではない。正直に言うと、私は新たな職場で、誰とも仲良くなることができなかった。

同期の子はたくさんいても、新卒の子たちとは年も離れている、出身もちがう、同職種の子がいない、といった理由もあるが、それはただの言い訳で。

友達になりたいと思ってもらえるような人になれなかった。
友達になろうとする努力すらしていなかった。
友達なんて別に今さら増やさなくてもいいだろう、とすら思っていたのだから。

面談で、上司は、同期とは仲良くなれましたか?と尋ねる。
同期の友人をもつのは、心強いことですよ、いいものですよ、と。

私は、「そうですね」と、はいともいいえともつかない返事をして、かつての職場の同期である友人を思い出していた。

友達の大切さなんて、言われなくてもわかってるよ、と思った。

でも、ちゃんとは、わかっていなかったのかもしれない。

久しぶりに、M君と会って話したら、やっぱり友達っていいな、と思った。

そして、本当は、今の職場の同期とも友達になりたかったんだ、と気づいた。

誰でもやってしまう思考回路かもしれないけれど、求めているものが手に入らないと悔しいから、自分が惨めになるから、最初から求めていないんだってふりをする。

誰にともなく、自分自身に嘘をつく。

自分の気持ちを認めたところで、もう職場の研修も終わってしまったし、同期と顔を合わせることはほとんどないから、いまから同期と友達になることは難しい。

だけど、友達なんてできなくても仕方ないや、社会人になってから友達をつくるのは難しいんだと思い込むより、友達っていいな、友達に連絡してみようかな、友だちができるといいなと思っている自分のほうが好きになれそうな気がした。

よそよそしく感じていた街の景色も、この街に友人が暮らしているんだと思うだけで、親しみを覚える。

いつかこの街で新たな友だちもできたらいいな、と思う。


M君と会ってから数週間後、今度は中学からの友人が、私の住む街に遊びに来てくれた。

近県に住むOちゃんとKちゃん。女神のような二人。

私のおすすめのお店でランチをして、私の働く美術館を案内して、ケーキ屋さんでまるごと桃がのったタルトを3つ買って、私の家で食べた。

二人と会って話すと、マスクの下でこわばっていた顔がふわりとほぐれていく。

二人を駅まで送って別れると、なんだか寂しくなって、「二人が帰ってしまって寂しい…と感じるほど、今日一日が楽しかった!」とLINEする。

送信したあとで、なんだかまたおセンチモードになっちゃったなと反省していると、二人からも返事がくる。

「楽しかったぶん、寂しいね」
「わかるよ!楽しかった反動を感じております」
と、二人は、私のおセンチモードを茶化すことなく、優しく受け止めてくれる。

そうだよね、二人はいつもそうだったよねと、懐かしさで胸がいっぱいになって、すこしだけスマホの画面が滲んで見える。

二人は、数時間をこの街で過ごして帰ってしまったけれど、その日から、この街は「二人が来てくれた街」になった。



それから、先週の三連休。私の父と母が、この街に遊びに来てくれた。
父の運転で。

後部座席に布団を詰めてきた父と母は、私と夫の暮らす家でニ泊した。

私は土曜日が仕事だったから、その日は夫に父と母の案内を任せた。
夫はお気に入りのラーメン屋さんと、私の働く美術館を案内してくれた。

仕事が終わってから、家で焼肉をした。母はお肉が大好きだから、前日にたくさんお肉を買っておいた。牛肉と鶏せせりと豚ホルモンと生ラム。
父が持ってきてくれたりんごの果肉の入った梅酒と、伯楽星で乾杯した。どちらも、ふわりととろけるような呑み心地だった。

いつも二人では広々とした食卓が、四人で座るとぎゅうぎゅうだった。

「なんだか、この家にいると、遠くにきた気がしないな」と父が言う。

私も、父と母が来てくれたはずなのに、自分が実家に帰っているような気持ちになった。

次の日の朝、父と母は、朝早く散歩に出かけた。じっとしていられない人たちなのだ。

私は、ごはんを炊いて、えのきを煮てなめ茸をつくり、シソ、ミョウガ、ナス、茹でたオクラを刻んで納豆と混ぜる。夫が、ネギを刻んでサバ缶と和えたもの、レタスと玉ねぎのサラダをつくった。父と母が散歩から帰ってきたころ、朝ごはんの支度が終わった。

ところが、ごはんがうまく炊けていなかった。水の分量を私が多く入れてしまったせいで、ごはんは水っぽくなってしまった。
せっかくごはんのおともを揃えたのに、と私ががっくりしていると、「大丈夫だよ、おいしいよ」と夫が言い、「俺もときどき間違えることあるよ。消化にいいかも」と父が言う。
母は、「ホテルだと、おかゆかごはんか選べたりするけどさ、これはそのいいとこどりかも」なんて言って、笑っている。

さすがにそんなわけないだろう、と思いながらも、みんなで食べると水っぽいごはんもまずくはなかった。

その日は、父の運転で、日帰り温泉と、道の駅に行った。

父の運転は、安心して眠れる。
後部座席で父と母の話をうつらうつらと聞くのはいつぶりだろう。

いつまで、父はこうして私を後ろに乗せて車を走らせてくれるだろう。

私の住む街は、実家から車で5時間ほどかかる。
「来られない距離じゃないな」と言っていた父だが、そう何度も来られる場所ではない。

いつまでもつづくわけじゃないけれど、どうかこの時間が少しでも長くつづけばいい、と私は願ってしまう。


道の駅から帰る途中、私はお気に入りのスーパーに寄りたいと言った。そこには新鮮な魚が並ぶから、父もきっと気にいるだろうと思ったのだ。

予想どおり、父は真剣な目で魚を選びはじめる。

父をこの店に連れてきたのは、私が父のつくる魚料理を食べたかったからだ。

「包丁を握ることになるとは、思ってなかったな」と言いながら、スーパーで買って来た魚を捌く父は、どこかうれしそうだった。

父が、料理をするのが好きなことを、料理を食べさせるのが好きなことを、私はだれよりも知っている。

父は、半身で買ったブリを捌いて、お造りと、あら汁と、お煮付けをつくった。

父のつくるお造りは、切られて売っているお刺身とどうしてこうも味がちがうのだろう。
あら汁も全然臭みがなくて、旨味だけがぎゅっと溶けこんだ、澄んだ味がする。

そして、なんと言ってもお煮付けだ。父のつくる魚の煮付けは、こっくりと甘く、かと言って甘すぎず、魚はふっくらとしているのに、口の中に入れるととろける。お刺身の余りのブリの頭を煮つけたものだったが、もっとお魚を買って煮てもらえばよかったな、と少し後悔した。

きっと私はいつまで経っても、父の味を越えられない。でも、越えられないものがあってもいいのだと思う。


父の作ってくれた料理を肴にしながら、またその夜もお酒を呑む。

「ぺこりんくんと、ももちゃんを見ているとさ、いつも仲良くて、楽しそうで安心するよ」とほろ酔いの父は呟く。母も、「そうだね」と言って、笑っている。

私は、少し勘違いをしていたかもしれない。

私は、ずっと、父と母を、安心させられていないと思っていた。働きはじめて、ようやく少しは安心させられたかな、と。

たぶん、父も母も、私が働きはじめて安心した部分もあるのだろう。

でも、その前から、父と母は安心してくれていたのかもしれなかった。

父と母が願っていたのは、私が経済的に自立することじゃなくて、私と夫が仲良く楽しく暮らすことだ。

それは、私と夫の、何よりも得意なことだと思う。



父と母が帰ってしまったあと、家の中がいつもより広く感じられた。

だけど、父や母がさっきまでそこにいたと思うだけで、父と母がいつでも見守ってくれているような心強さを感じる。

離れて暮らしていても、心が離れてしまうわけではない。


私の暮らす街は、故郷から遠く離れているけれど、故郷の記憶はいつも私の傍らにある。

そして、今暮らすこの地にも、私は少しずつ根をはりはじめている。



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